轟々と叩きつけてきた。
 それは雨というよりも、水が無数の棒となって小突いてくる激しさであった。
 帰り際、山肌に遊ぶヤギの群れを一狩行こうかという軽い気持ちでぶらぶらしていたのが悪かった。オオカミは挫いた前脚をどうしようかと困り果て、そしていつのまにか日も沈んでいた。
 だらしなく口から垂れた舌に、容赦なく雨粒は振り当たっていた。
 そこらにあった太めの小枝を手にとり、なんとか歩いていると、ボロボロになった小屋に行き着いた。そういえばそんな場所があったなぁ、と思いながら、やっとの思いで逃げ込んだ。
 扉を閉めるのと雷鳴が轟くのはほぼ同時であった。
「ヒャアッ!」
 オオカミは、まるで自分のお尻に獣が噛り付いたように驚いた。毛が逆立つ。

 うぅぅ……ぅぅ…………。

 小声で唸っていると、ふとオオカミのいる側と反対側の方になにやらごそごそと動く音が聞こえる。
 中は真っ暗で何も見えない。
「すごい、嵐ですね」
 先客がいた。棒を握る手に力が入った。
「ハアハアハア、そ、そうだな」
 鼻をスンと鳴らしてみるも、詰まっていて臭いがわからない。この嵐で風邪を引いてしまったらしい。
「ハアハア、ま、真っ暗で、ハアハア、ち、ちっとも気が付かなかったス」
 コツッ、ずず、コツッ、ずず。
 支えとしている棒きれを頼りに、オオカミは手頃な場所を探してとすんと座り込む。華奢な身体が少し震えた。棒を傍らに置き、相手は誰だろうと思いながら鼻面をさする。
 声がした方に目を凝らしても、何もわからない。自分のような甲高い声とまではいかないが、普通のオオカミと比べたら高めの声をした奴だ。
 聞き覚えはない。自分とこの群れの奴ではなさそうだな、と思い、少し興味が湧いてくる。すっかり同族だと思い込んだオオカミはさり気なく側に寄っていた。

 一方でもうひとりの声の主もまた、妙に甲高い声をした何者かに興味をわかせた。そして、相手が自分と同じ動物だと思い込んでもいる。棒切れが床を叩く音を蹄の音と勘違いしたのだ。
 実を言えば、オオカミが話している相手はヤギである。いつも追いかけ回している生き物だとつゆ知らず、オオカミは軽い親しみを覚え始めていた。
「あなたが来てくれて、ほっとしましたよ」
「そいつぁ、オレだっておんなじだ。あらしのよるに、こんな小屋にひとりぼっちじゃ、寝たくもならないのに寝る努力しなきゃいけなくなるもんなっ」
 オオカミの独特な言葉遣いにヤギは少しだけ考え込んだが、要するに手持無沙汰で寂しいということなんだと理解した。
 一息ついたところでオオカミが口を開く。
「と、とてもとても大変だったよ。いつっつつ……おかげで足も挫いちまうし……ほ、ホント散々だ!」
「ああ、それは大変ですね……」
 ヤギは心底、心配した。
「足を悪くしないようにしないと。私に構わず、どうぞほら、こっちに足を伸ばしてくださいよ」
「オォ、恩にきるぜ。しつれいしつれい」
 オオカミはごてんと横になって四本足を伸ばした。その内の一本がチョンとヤギの腰にあたる。

──あら? 蹄にしてはずいぶん柔らかいな……。

 と思ったが、きっとあたったのは膝なんだと思い込む。
「ハ、ハァックション!
「大丈夫ですか?」
「……っと、ごめんな。鼻風邪引いちまった。おかげで鼻も効きやしねぇや」
 オオカミは暗闇の中でペロリと鼻水を舐めとった。
「えへへ、私もなんです。そうなると、お互いわかるのは声だけってことになりますね」
「そうそう、そうなるなっ」
 なははは……。
 くすくすくす。
 オオカミの甲高くてトボけた笑い声に、ヤギも脱力して笑いが漏れた。
 オオカミはヤギの押し殺した笑い声に、

──ヤギみたいになよなよした笑い声だなっ。

 と言いかけて、そりゃ失礼かと口をつぐんだ。
 依然、二匹とも、自分の話している相手が同族だと少しも疑っていない。
「どちらに住んでるんですか」
「バクバク谷っ!」
「えぇ~、バクバク谷って危なくないですか?」
 バクバク谷はオオカミの一団が根城にしている場所であった。
「んぅ、まあ岩がごつごつしてるけど、慣れたらいい場所だぞ。ででで、そっちはどこに住んでるんだ?」
「度胸があるっていいですね~。私はサワサワ山です」
「えぇー、なんだそれなんだそれ! 食べ物がいっぱいで羨ましいぞ」
 オオカミの舌から涎が滴り落ちる。彼のような者にとっては確かに楽園のようなものだった。なにせエサのヤギがたくさん住んでいるのだから。
「まあふつうですよ。ハハハ」
 そのとき、ふたりのお腹が同時にぐうと鳴った。食べ物の話が少し出たせいかもしれない。

 ぐううう~。

 再び、今度はひときわ大きく、ふたりのお腹が音を上げる。
「そういや、腹が減ったなぁ~」
「ほんとに。わたしもぺこぺこ……」
 ふたり揃ってお腹をさする。

「ここ、こんなときにうまい御馳走が近くに『いた』らなぁ」
 おや、『いる』とは珍しい言葉遣いだな、とヤギは思ったが、そんな言い方もあるのだろうと勝手に納得した。
「わかりますよ~。わたしも、周りにエサがたくさん『あった』らなぁ、とちょっと妄想しちゃいました」
 オオカミはヤギに囲まれて座る自分を想像した。普段は群れで囲い込んで狩りをしているので、自分がヤギに囲まれたらという想像はしたことがない。
 うーむ、なるほど、そりゃいいや。内心でオオカミは話し相手に感心した。そういえば『ある』ってちょっとおかしい言い方だな。まあいいか。

「そういえば、おれ、サワサワ山のふもとのフカフカ谷んとこに、よくエサを食べにいくんだ」
「おや、偶然。わたしもそうです」
「あそこに『いる』エサは、カクベツさ!」
「ええ、においもいいし、」
「やわらかくて、はごたえも、ばつぐんだっ」
 自分の前脚を肉に見立ててかぶりつくふりをする。それで涎でべしょべしょになっても気にせず、楽しそうに前脚をむしゃぶる。
「・・毎日食べても、飽きないですよね」
「ほんとほんと。一度喰ったらやめらんねぇ。やみつきだぁ」
 横で食べる素振りをしている音を聞いて、ヤギはどこか不安を覚えた。はふっはふっとこぼさぬようについばむ真似をしているらしいが、それはどことなくオオカミらしく、しかもいやに生々しい。

――もしかしたらわたしだって腹が減ってどうしようもなかったらそんな食べ方になっているのかも。

 わたしは何を心配しているんだと頭を振り、気を取り直した。
「うん、その言い方、ぴったりですよね」
「あぁああぁ、思い出しただけでもたまらねぇなぁ。よだれが出る出る」
「あぁ、思いっきり食べたい・・・・」
 小屋の真上の分厚い雲がゴロゴロと唸っている。二匹は同時に、
「あの、美味しい・・」
 『草』とヤギが言い、『肉』とオオカミが言った。
 けれども、ぴしゃりという、引き裂くような雷鳴がその声をかき消してしまった。
「ニシシ、雷に怒られちゃいやしたネ」
 悪戯っぽく笑うオオカミに、釣られて笑うヤギ。紙一重の雷鳴で、ヤギの命はなんとか繋がった。そんなこと、ヤギは知る由もない。

「そういえばわたし、子どもの頃はけっこう痩せてましてね。いまはそれなりに食べてふくよかな方ですけど、子どもの頃はおばあちゃんから『そんなんじゃ、いざというときに速く走れないでしょ。はやく速く走れないと生き残れないよ』って、口を酸っぱく言われてました」
「そーなのか。オレは昔も今もやせっぽっちでさ、やっぱり家族ってのがいたらオレもおんなじこと言われてたのかなぁ」
「え、あ、なんか、すみません」
「あやまるなってば。いちおう、オレにもダチがいるんだ。そいつからは『はやく走れねぇと生きてけねぇぞ』って言われてたぞぉ」
「そうなんですね。やっぱり、足は、大事ですよね」
「にひひひひ。だから足をくじいちゃダメなんだよな。ところで、お母さんはどうしてたんだ?」
「母は、わたしが子供の頃に亡くなりました。あまり覚えてないんですけど、でもわたしがそのとき必死に走ってたのは覚えてます」
 さすがにオオカミも言葉を返せず、少しの間だがいつも出している舌を口の中に引っ込めてしまった。

ぴかっ

 そのとき、すぐ近くで稲妻が走った。
 小屋の中が一瞬、昼間より明るい光に映し出された。
 小屋に漂っていたどんよりした空気もすべて払ってしまうかのようだった。
「あっ、わたし、いま、うっかり下を向いてましたけど・・、わたしの顔、見えたでしょ」
 オオカミは確かに一瞬、話し相手を目に捉えていた。しかし、あまりに光に溢れていたものだから、毛並みが綺麗なことくらいしかわかっていない。
「……それが、まぶしくて、ぜんぜん。でも、毛、とてもきれいだった」
「なんか照れますよお。ま、もうすぐ夜が明ければわかることですね」

ガラガラガラ~~~!

 今度は凄まじい雷が小屋中を轟かした。
「ひゃああ」
「ぎょえっ」
 思わず二匹はひしと抱き合ってしまった。オオカミはその隙になぜか肉球で相手の毛並みをさすった。ヤギはオオカミの胸元の深いふさふさの毛に囲まれて少し癒された。もしかしてヒツジかな、とヤギは思った。
「あっ、しつれい。どうもわたし、この音に弱くて」
「オレ、オレ、オレもだ。ふぃー、びっくりしたぁー」
 雨の音は前より静かになり、吹き荒れる風も弱まっている。
 なんだかお互いの鼓動が大きく感じられるような気がして、抱擁は解けてはいても、ふたりはそのまま寄り添い合って不思議な気分に浸っていた。
 食べ物よりも、今は温もりの方がずっと近くにある。ふたりは、なんだかそれでいいような気がしたのだ。

「たぶん、わたしたちって、似てないと思います」
「な、な、なんでそう思う? 気なら合ってると思うぞっ」
「そうです。似てなくても一緒にいたら楽しかったり嬉しくなったりするんですよ。どうですか。今度、天気のいい日に、お食事でも」
 オオカミの胸は高鳴った。いつも一緒にいる相棒とは別の、友達になってくれるかもしれない相手ができたのだ。しかも一緒にお食事である。花を見るのが好きなこのオオカミは、どこか大きな花咲く野原で、笑い合いながらお肉を頬張ってみたいなあと日頃常々思っていた。が、同じ群れの他の仲間は付き合ってくれたことがない。
 よし、なら、お花さんを見せに行こう。
「ヘイヘイヘイヘイ!」興奮してつい群れのボスに返事をするかのようになってしまった。「こんなひどいあらしでさ、最悪な夜かと思ってたけど、いいトモダチに出会って――目でちゃんと見てはないけど――、こりゃあいい夜、最高の夜かもしんねぇや」
「おや? もうすっかり、嵐も止みましたねえ」
「おっ、ほんとだ」

 雲に切れ間に星々が見え隠れする。薄くなった雲の層を突き通して月の光が地上へと降り注ぎ始める。
 小屋の中は、まだ暗い。

「それじゃ、とりあえず、明日のお昼なんてどうです?」
「いいねっ。あらしのあとは、特にいい天気っていうしなあ」
「会う場所はどうします?」
「うぅぅぅぅん」
 オオカミが唸った。ヤギはオオカミみたいな凄みのある唸り声ですねと茶化そうとしたが、相手に失礼だと思い、やめた。
「じゃあじゃあ、この小屋の前で」
「きまり。でも、お互いの顔がわからなくなったりして」
「んじゃあ念のために、オレが『あらしのよるにトモダチになったやつです』って言うか」
「ハハハ、『あらしのよるに』だけでわかりますよお」
「じゃあじゃあじゃあ、オレたちの合言葉は『あらしのよるに』ってことだなっ」

 オオカミは傍らに置いていた杖を取り、ゆっくりと出口へと向かう。微かな光がオオカミを照らすが、ヤギにはひょろりとした形の影しか見えなかった。
「う、いちちちちち……」
「お、オイ、大丈夫か?」
 ヤギは後ろ足をさすった。
「なんか、痺れちゃって……お先にどうぞ。気を付けて、『あらしのよるに』」
「じゃあな、『あらしのよるに』」
 さきほどまで荒れ狂っていた嵐などなかったかのように、小屋の周りの丘に爽やかで清々しい風が吹いた。雲も去り、星空と山並みの向こうには夜明け近い朱色がぼんやりと覗いている。

 暁の静かで澄み渡った明るい闇の中を、手を振りながら左右に分かれていくふたつの影。

 あくる日の昼下がり、この丘の小屋の前で何が繰り広げられるのだろうか。

 ほんのわずかに顔を出した優しい朝日にもそんなこと、わかるはずもないのである。

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