晴れ渡った空の下、ごつごつとした岩山の中、鳥のさえずり……のような、一匹のオオカミのハミング。
 群れ一番のお調子者で間の抜けたように舌をヘッヘッと出すのが癖のこのオオカミ、どうやら今日は誰かと一緒にピクニックに行くらしい。
 昨晩は酷いあらしのよるで、脚を挫いてしまったオオカミはとある小屋の中に逃げ込んだ。暗闇の中で知り合った相手と仲良くなり、互いに顔も容姿も知らないままに、翌日会おうという約束をしたのだ。

「よぉ、ボロボロで帰ってきた割には元気じゃねぇかよ」
 オオカミの仲間で一番の仲良しが話しかけた。右目には分厚い葉でできた眼帯を掛けていて、体躯は丸っこく大柄である。そんな相方と比べると、大口を開けて舌を垂れ下げているこのオオカミは非常に小柄だった。普通のオオカミと比べても痩せている。体型は正反対だし、性格も似ても似つかぬでこぼこなふたりである。
「へっへー! 怪我なんて屁でもねぇくらいにオレは今最高の気分なんだぜッ。そんなわけだから、スマンが今日は一緒にいれないからなっ」
「どんなわけだ……」
「ともだちできた」
「なるほどな。この相棒を差し置いてか」
 眼帯のオオカミは少し目をキッとさせて睨む。
「お、オイオイオイオイ、別にオレがトモダチ作ったっていいじゃねーかよぉ」
「──へっ、冗談だよ」
 相棒は前脚を痩せっぽちなオオカミの首に回して身体を引っ張った。
「やっぱおめぇはでけぇなぁ」
「お前がひょろっちいんだよ。この歳になってもそんな少食じゃこの先生きるのが難しいぞ」
「へいへい」
「全く……ほら、持ってけ」
 眼帯のオオカミはゴソゴソと自分のねぐらを漁り、何かを取り出すと、それを相棒に放り投げる。ホオの木の葉で包まれたそれをクンと嗅ぐと、美味しそうな肉の匂いがした。
「ヤ、ヤ、ヤギの肉だぁー!」
 涎がボトボトと地面に落ちた。
「そいつでも弁当にして仲良く食べてきな。あと太れ」
「ありがとよ! ありがとよ!」
「うるせぇうるせぇ、さっさと行かないか」

 子犬のように跳ね回り、何度も振り返りながら感謝を告げる痩せっぽっちのオオカミに、丸く肥えたオオカミは不貞腐れたように無言のまま、見えなくなるまでじっと佇んでいた。

***

 バクバク谷と呼ばれる群れの住処を後にした有頂天のオオカミは、舌と涎を振り回してルンルンと森の中を歩いた。
 ときおり枝が折れる音。
 茂みがわさわさ揺れる音。
 それらはまるで彼の鼻歌の伴奏のようだった。
 やがてオオカミは小屋の前に着いた。背中に乗せた弁当はほのりと温かみを帯びている。期待に見開かれた両目は待ちわびるように細くなった。
 鼻がひくひくと動く。ヤギの匂いを強く感じた。しかし、それはきっと背中の弁当が食べ頃だからなんだと思い込む。
「まだか、まだか、まだか?」
 そのとき、かさりと何かが揺れた。音の方を見れば、オオカミはしめしめ、口の端をにたりと上げる。
 視線の先には一本の木。根元の草が風もないのに動いている。
 そろりそろりと忍び寄る。白く小柄な身体がちらりと覗く。間違いない!
 まるで空に吠えるかのように、高らかに合言葉を放った。

「あらしのよるに!」
「あらしのよるに!」

 お互い息ぴったりと声を掛け、そしてはたと空気が凍りついた。
 いつまで見つめ合っていたことだろう。

──やがて、
「ヤギ!」
「オオカミ!」
 びっくりを口に出すタイミングも一緒であった。
 そう、オオカミが昨晩、一緒に仲良く過ごした相手の正体はヤギだったのだ。
 オオカミは思い出した。雷で一瞬明るく照らされた最中見た、白く綺麗な毛並み……。なるほどヤギだ。
 一方、ヤギも思い出した。自分にふれたやけに柔らかい感触はオオカミの肉球で、寄り添ったときのフサフサ感はオオカミの胸元の毛……。
「え、えーと、これ、どうぞ」
 動いたのはヤギの方からだった。差し出された蹄には四つ葉のクローバーが挟まっている。
 オオカミは緊張した面持ちで贈り物を見つめた。
「ど、ど、どうも……?」
 何か動かないといけないと思い、とりあえず受け取る。
「四つ葉のクローバー……あ、ありがとな!」
 オオカミはそこで初めて、プレゼントを用意するのを忘れていたことに気付いた。持ってきたものはオオカミの相棒から受け取った肉の弁当だけだった。
「スマン……慌てててお返しするモンがねぇや」
「いいですよ。実際私も出発直前に運良くそのクローバーを見つけられただけですから。慌てていたのは私も同じなんです」
 いきましょうか、とヤギが促した。オオカミは少しタジタジしながらオウと返す。
「どこか行きたい場所とかありますか?」
「え、あ、……アンタの行きたいところなら構わんぜ」
「そうですか。では私が前ですね」
 オオカミはすっかり混乱してしまって、昨晩、お気に入りの花咲く野原に連れていこうという決意をしたことをすっかり忘れてしまった。

――目の前はヤギ、でも昨晩はあんなに仲良く話してた。食いたいけど……でも……?

「それにしても、びっくりしましたよ。まさかあの夜話した相手がオオカミだなんて」
「お、オレもだ。まさかヤギだなんて夢にも思わなかったんだよな……」
 目の前で揺れるヤギのお尻がとても魅力的だった。涎が次から次へと溢れてくる。
「でもでも、安心してくれよ。俺はこう見えてもユウジョウは大切にするシュギなんだぜっ」
「おや、私もです。なんだかんだ気が合うかもしれませんねぇ、私達」
 やがてふたりは崖沿いの登り道に差し掛かった。道幅は狭く、ひとりが通れるくらいである。登り道といっても、自然が作り出した偶然の産物のようなもので、歩く地面は岩肌の小さくて急な凸凹ばかり。起伏だけでなく、オオカミの柔らかい肉球に鋭い砂利が食い込んで、オオカミにとっては歩きにくいことこの上ない。四苦八苦するオオカミをよそに、前を歩くヤギは慣れた足つきでどんどん前を進む。

 こうべを垂れて上目がちに前のヤギを見ると、ヤギのお尻が誘っているかのように左右に揺れている。慣れない道に疲れ始めていた身体が、お腹を小さく鳴らし、口の中からは涎を溢れ出している。
「気をつけてください。この先『ちょっと』険しいですよ」
「ヒイ、ヒイ、ヒイ、マジかよっ!」
「大丈夫です? 少し休んで──」
「いやいやいやいや、それはダメだ!大丈夫だから安心しろ、なっ」
 足を折り畳んで目を閉じるヤギを今ここで目にしたら、きっとエサだとしか思えなくなってしまう。オオカミはなんとなくそう思って、歩みを止めたくても止められなかった。
 やがてふたりは頂上までもう少しというところまで差し掛かった。しかし、前日の嵐のせいであろうか、道が途中で崩れ落ちており、今もなおパラパラ、岩石が小さく剥がれては、はるか下の森の方まで落ちていった。
 オオカミは唾を飲んだ。彼の感覚では飛べるか否かのギリギリの距離である。
「あら……どうします?」
「う、うーん……行こう、行こう行こうっ」
「そうですか。では──」
 ヤギは少し助走をつけて、ひょいと難なく飛び越えた。
 オオカミも負けじと、長めの助走から、後ろ足で力一杯地面を蹴った。前足の爪ががっちりと地面を捕まえる。後ろ足もなんとか着地に成功した、が……。
 オオカミの着地の拍子で、瞬く間に地面の淵が崩れていく。オオカミは慌てて水かきをするようにもがく。硬い土や岩を引っ掻いて引っ掻いて、あわやというところ、ヤギの前足に捕まってことなきを得る。
「うおお、あぶねぇあぶねぇ」
「安心しないでください! 私の力だけだと引っ張り上げられませんよ……」
「あ、ごめんな」
 後ろ足で断崖をよじ登り、ふたりは息を荒げながら地面に這いつくばった。
「はあ、はあ、肝が冷えましたね。っつ…‥」
 ヤギは苦い表情で自分の足元を見た。前脚に切り傷ができている。
「あ、あああ、すまねぇ、すまねぇ!」
「これくらい安いもんです。気にしなくていいですよ」
 笑顔でヤギはこたえた。オオカミはそれ以上何も言うことができなかった。
「や、ヤギってのはこんなトコにしょっちゅう足を運ぶのか?」
「元気があるときはこういったところで遊びはしますけど、あまり頻繁には行かないですよぉ。あと、オオカミから逃げるときとか……って、すいません」
 謝るヤギがなんだかおかしく思えて、オオカミは大声で笑った。
「ぎゃはははは! 確かにそういうこともあったよなっ。そういうときは空きっ腹のままとぼとぼバクバク谷に帰るんだよなぁ。最悪ボスにも怒られたりしてさっ」
 無邪気に笑い飛ばすオオカミを見て、ヤギもまた楽しくなってきた。オオカミの狩りの話を聞くのは少し恐ろしかったが。
「先を急ぎましょうか」
「そうだなっ」
 再びヤギを前にして、ふたりは頂上への道を歩いていく。オオカミは相変わらずヤギのお尻をかぶりつきたい誘惑に駆られていたが、崖から落ちそうになる以前よりはどこか気分が楽だった。
──こいつは単なるヤギじゃない。トモダチがたまたまヤギだっただけだもんな。なんだかんだ、こいつがいなければ俺はあらしのなかで寂しい思いをしてたろうし、しかもオオカミのオレを助けてくれた、すごくいいヤツなんだもんな。

 オオカミが目の前のヤギについてあれこれと考えていると、ごつんと頭が何かに当たる。
「ほら、着きましたよ。ちゃんと前、見てくださいね」
「んぇ? ああ……」
 ヤギが笑顔に目を細めたので、オオカミがぶつかったときに涎をぼとぼと落としたことなど知らない。
 ふたりが到着した高台は登った道とはうってかわって草原のように豊かな緑が敷き詰められている。真上から陽が照りつけるふたりの影は草むらの無数の小さな影の中に紛れていた。高台の上のただ一本の木が見守るように立ち尽くしている。
「いい眺めですね」
「うんうん。こんな高くてこんなスカッとする場所まで来たのは初めてだぜ」
 毛と毛の間をすり抜ける風が気持ちいい。

「おっ、あそこがバクバク谷で……」
「こっちがサワサワ山ですねえ」
 ふたりはしばらく、あれはこうだこれはああだと景色を一緒に楽しんだ。ヤギにとっては知らない場所でも、オオカミは目に見える所をほぼほぼ知っているらしい。ヤギは初めてオオカミが羨ましいと思った。

「はあ、ちょっと話し疲れちゃいました。お昼にしましょうか」
「そうだなそうだな。えーと……あ、おぉー!」
 ヤギが大きなホオの木の葉を広げ、その上のクローバーに舌舐めずりしている横で、オオカミが突然遠吠えのような叫び方をする。ヤギはおっかなびっくり、身を縮めて横のオオカミを何事かとおそるおそる見やった。
「べ、べんとう、おとした……」
 崖際での命からがらの出来事の後でオオカミとヤギはすっかり意識していなかったが、あのときに弁当を下に落としてしまったらしい。
「ひもじいなあ……」
「もしよろしければ私のお弁当……って、オオカミは草食べませんものね。あ、もしかして、落としたお弁当ってヤギの肉だったりして」
「え?! いやいやいやいや、それだったらオレぁアンタをとっくのとうに食ってるよ!! 脂の乗った新鮮な血と肉汁がこりゃまた絶品なんだから、それを逃すはずないじゃんかよぉ!」
「で、ですよねっ! 不躾な質問してすみません」
「いいっていいって。気にせず食ってくれ。オオカミは二、三日食わなくてもへーきだからよ。オレは昼寝でもしてるから」
 オオカミはごろんと地面に転がり、ヤギに背を向けてぎゅっと目をつむった。
 ヤギも少し慌てて、もってきたクローバーを食み始めた。途中、「そういえば、さっきオオカミの言ってたことが危なかったような」と思うことはあったが、オオカミの好意に失礼だと思い、それ以上考えることはしなかった。
 美味しそうにクローバーを噛んでいるヤギの気配を後ろに感じる。オオカミは寝ようとしても寝付けなかった。

──弁当があるといえばあるんだよな、オレのこぉんな近くによ。

「ふわぁーあ。食べたら私も眠くなっちゃいました」
 そんなオオカミを露知らずに、ヤギはのんきにオオカミの隣で昼寝をし出した。オオカミは余計に目が冴えてしまった。ヤギの匂いがいっそうとオオカミの鼻をくすぐってくる。さきほどのヤギの傷からも血のにおいが漂ってきて始末が悪い。
 がばりと身を起こす。横になってスヤスヤと眠るヤギをじっと見つめる。ぴくぴくと動くヤギの桃色の鼻と薄い耳が、オオカミにはいかにも食べて欲しいと訴えかけてくるようだった。
「な、なんでこんなに美味しそうなんだよ……食べてもいいのか、いいのかよ?」
 オオカミは唾を飲んだ。それでも、口からはとめどなく唾が溢れていく。あむあむと口を開け閉め、舌を出し入れしてごまかしても、オオカミの頭は食欲でくらくらとしてくる始末。目もすわって、座る姿勢も前かがみ。
「へへへ、案外許してくれそうな気もするなぁ。『あなたは大事なトモダチですから、片方の耳くらいどうぞ』ってな感じでよ……。ヤギの耳って美味いんだよなぁ、食いてえなぁ
……でも、そんな簡単にいくわけないか。きっとちぎったら痛いだろうし。オレを見る目が変わっちゃうよなぁ。トモダチ同士っていうか、それはただのオオカミとヤギの仲だろ……ああもう!オレのバカ!」
 オオカミは歯を食いしばって自分の頭をバシバシとぶった。
「なんですか?何かありましたか?」
 眠そうなぼんやりした顔でヤギはオオカミの方へと振り返った。
「あ? いやいやいやいや、なんでもねぇ、なんでもねぇ」
 ちょうど前脚を振り上げているさまはまるでオオカミがヤギを今にも襲おうとしているかのよう。しかし寝ぼけたヤギにはわからない。オオカミは苦笑いで、すとんと前脚を地面に落とした。
「そうですか。なんか耳に生暖かい風が来てくすぐったくて、おまけにぐぅ~という音や、なにやらゲシゲシ叩く音もしたんですが……」
「ち、ちょうど気持ちのいい春の風が吹いたんだぜ。音はアレだ、えーと……自分を叩いてみる遊びだぜっ!ぐぅ~ってのはアンタの気のせいだ!」
「あはは、なんですかそれ。もしかして私が寝ちゃって退屈でした?」
「え、えーと、えーと……やるせなくて…………」
「やるせない?」
「そ、そ、そうだそうだ! やるせないんだ! こんな一生に一度あるかないかの大事な時間に寝ちゃって、いっしょに話したり遊んだりする時間が少なくなるのはやるせないんだ!」
 オオカミは勢いに任せて口走った。大きな口を思い切り開いて、舌を振り回して。ヤギの顔につばがかかるほどの必死な表情で。ヤギは驚いてただただ固まっていた。自分の顔につばがかかったことも気にならないくらいに、オオカミの言葉が心を叩いていた。
 言い終わってからオオカミはしまったと口を両手で覆った。こわがらせてしまったらどうしよう、と見開いた目を今度はぎゅっと閉じた。
「そうですか、そうなんですか。なるほど……」
 いやにヤギの声が遠く感じる。このまま去ってくれた方がいいかもしれないとオオカミは後悔した。
「確かに、ちょっとだけお散歩しておしゃべりして寝て帰ってしまうのはもったいないです。なにせ私たちは同じ群れで暮らしているわけではないですし……。遊びましょう!」
「うんうん、やっぱそうだよな……オレとはいっしょにいない方が……って、ええ?」
「いやいや、遊びましょうって」
 オオカミは久しぶりに心がぽかぽかしてくるのを感じた。ここまでぽかぽかするのはいつぶりなんだろう、と思い出したら、いつも群れでいっしょにいるあの眼帯の相棒の顔が思い浮かんだ。

──そうか、アイツといっしょなのか。

 ヤギが微笑んでオオカミを見上げている。ヤギもまた、このオオカミと同じように、心が温まっているのを感じていた。ヤギにもまた、群れに何匹かそういった仲間をもっている。
 このときふたりは、ヤギだとかオオカミだとか、そんなことは全く気にならなくなった。
 オオカミの言葉や態度に怖じけず逃げず、真っ直ぐと向き合ってくれるヤギ。それにオオカミは内心驚いたし、その優しさを嬉しく思った。
 オオカミの腹の音は鳴っている。
 ヤギがどんなに無防備であっても、たとえ自分のお腹の音がどれだけ鳴ろうとも、涎を垂らそうとも、我慢しながら対等な立場で接してくれるオオカミ。いい加減ヤギにも、自分を食べたくてしょうがないのだなということはわかっているが、このオオカミであれば心を許してもいいと思った。私がのんきで良かったと、ヤギは心の底から感じた。
 オオカミの腹の音は鳴っている。
 緊張から解き放たれたオオカミであっても、相変わらず本能が水を差している。しかし、前よりも落ち着いて抑えることができるようになった。そこでようやく、オオカミはヤギに「きれいな花咲く野原を見せる」という決意を思い出した。だが、この高台からそこへ連れていくにはさすがに日が暮れてしまう。
 ヤギはオオカミの返事を待った。口の端がにやけ上がるオオカミは涎を垂らしながら何度も頷いた。
 オオカミの腹の音は鳴っていた。

***

 ふたりはふたりきりの高台で遊んだ。
 最初に軽い追いかけっこをしてみたが、オオカミは空腹がひどくなって我慢できるか不安になり、ヤギもまた空腹な相手に走らせるのもひどいかなと思ったので早々に切り上げた。結局ふたりは地面に座りながら話をして、残りの時間をほとんど過ごすことにした。
 先ほどに引き続き、周りの景色を見てはあれはどうだこれはどうだと話したり、タネが尽きたら今度は昨晩のあらしのよるの会話の続きをするかのように、互いに目を瞑り、鼻を手で塞いで雑談したり。そして、これはふたりにとって一番楽しいやりとりだった。
「私、ちょうどこれくらいの風が好きです」
 何にもさえぎられることなくさわやかに吹き抜ける空気の流れを肌で感じ、ふとヤギはそんなことを言った。
「へぇ、それはまたどうしてだ?」
「水もないのに全身が洗われていくようで、じぃーんと身震いするような気持ちよさがあります」
「なるほど! たしかに、身体を動かして群れの住処に戻ったあと、どこからともなくこんな風が吹いたら、気持ちいいなってなるナ。苦労したかいがあったな、ありがてぇありがてぇって」
「わかります、わかります。必死になって走ったあとで、真っ直ぐでほどよい風に当たっていると、生きててよかったと思います」

のはらの草が ラララ
 波のようにゆれるのは
  その上でボクが ラララ
   おどっているからさ
ヒュルル ヒュルルル
 ボクは風
  ヒュルル ヒュルルル
   見えないけど
ヒュルル ヒュルルル
 ボクは風
  ヒュルル いつも
   そばにいる

 ヤギが口ずさんだその歌に、オオカミはじっと聞き入った。オオカミにはその歌を歌った記憶はなかったが、群れの仲間がそれをときおり呟くように歌っていたのを覚えていた。
「その歌、知ってる……」
「本当ですか!うれしいなあ。一緒に歌ってみませんか?」
 オオカミはためらったが、ヤギがしきりに歌いましょう歌いましょうと急かしてくる。しまいには蹄で小突いてきた。
 目をつぶっているオオカミにはなぜか、ヤギがどんな表情をしているのかわかった。きっといたずらっぽい笑みで、期待のこもった目をまぶたの裏から透かして光らせている。
「し、仕方ねぇなーもお……ヘタでも許せな」
 オオカミはたどたどしくヤギの歌声についていく。恥ずかしく思いつつも、何度も何度も間違えながらも、オオカミはヤギの声についていく。
 覚えることは少し苦手であったが、気持ちいい風を肌身に感じて唄うのはさらに気持ちがいい。

ヒュルル ヒュルルル
 ボクは風
  ヒュルル ヒュルルル
   見えないけど
ヒュルル ヒュルルル
 ボクは風
  ヒュルル ヒュルルル
   そばにいる

「おー、いいですね。楽しいでしょ?」
「おう、なんだか風も生きてるんじゃねえかって思えてきたぜっ」
 群れの仲間に今度詳しく聞いてみるとするか、とオオカミは密かに思った。
 ふたりの正面から、一陣の風が少し強めに吹き付ける。ふたりは同時に目を開ける。青い空の中で太陽が山吹色に染まり出していた。そして、そんな太陽をちらちらと隠す、暗い雲の一団が進んでくる。
「……これは大変、一雨来そうですね」
「そうだなぁ。風が教えてくれたんかな」
「ふふふ、『風のうた』のおかげですよ」
「にししし。さ、はやくいこうぜえ」
 夕立ちの気配と匂いがあたりに段々と強く立ち込める中、ふたりは何も言わず黙々と来た道を下っていく。登っていたときの危うい場面を心配して、再びヤギが前になり、今度は慎重に安全な足場かどうかを確認しながら後ろのオオカミを導いた。オオカミも命が惜しいから、ヤギの言うことには素直に従った。
「頂上はとても過ごしやすいけど、さすがにここに来るのはもうよした方がいいですね」
 パラパラと落ちる小さな石を背中に受け、ちょっと痛そうに見上げるヤギはそう言った。下る途中、既に何回も足を滑らせそうになったオオカミもまた、勢いよくうなずく。
「……でも、でも、そうってことはよ、オレたちの縄張りってことだぜ」
「なわばり?」
「だって、最後につばつけたのはオレたちで、しかももう、ヤギでさえも来れない場所ってことだろう?なら、オレたちのモンだ」
 ヤギにはいまいち要領がつかめなかったが、とりあえずこのオオカミにとってはそうで、そうだとしたら、なかなか面白いなと思った。
「ひみつの場所ってやつですか」
「それそれ!そういうこった!」
 ヤギは段々とこのオオカミの文法が理解できてきた。

──これは私にとってのひみつかな。

 さて、そんなやりとりがあっても、天気は着々と下り坂。ぽつぽつ、無数のしずくがゆっくりと地面を黒く染める。そしてすぐに土砂降りになった。風の気配はすっかり消えて、あたりにはざぁーざぁーと真っ直ぐと下る水の無数の軌跡。
「こりゃ大変だ」
「あ!あそこにちょうどいいほら穴があるぞ!」
 太陽がすっかり分厚い雲の向こうに隠れてしまって、外はほの暗い。陽の光が差し込まず、地面で反射した光しか照らすものがないほら穴の中は、夜のように真っ暗である。
「夕立ちだから、じきに止みますよ」
「そ、そそ、そうだな……」
 オオカミは口をあんぐりと開けてはヤギのいる方向をジッと見つめている。ほとんど何も見えないが、ヤギの匂いが雨の匂いの中でいっそう引き立っているようにオオカミには感じていた。オオカミは雨宿りしたことをとても悔やんだ。これならいっそ、外に出たまま急いでお別れした方が楽だったろう。
 ここに来てオオカミは、自分の食欲をこらえる自信が無くなってきた。鼻を塞ごうとする前脚は自然とお腹をさすっている。
 と、そのときだった。

ピカッ!

「あれ? いまなんか光っ──」

ゴロゴロゴロ~~~!!

「わ!!」
「ひゃあ!!」
 激しいかみなりの音が小さな洞窟の中に大きく鳴り響いた。それに釣られるかのように、雨もいっそうと酷いものになった。もはや一寸先も見えないくらいに雨水が幕を作っている。
 ヤギとオオカミは飛び上がって、ひしと抱き合った。
 オオカミはくらくらした。頭の中がヤギの匂いでいっぱいになっていた。お腹がぐぅぅ~とだらしない音を立てた。

ゴロゴロゴロ~~~~!!

「ひゃあ!」
 ヤギの頭がオオカミの深い胸毛の中にもぐる。
 オオカミの腹が、ぐぅぅ~。

ゴロゴロゴロ~~~~~!!

「んんん!」
 角がオオカミのアゴに当たって痛い。
 オオカミの腹が、怒るように、ぐぅ~。
 ヤギが身をよじりオオカミの身体に寄っては腹が鳴り、そして雷鳴がそれを隠すかのように洞窟に轟く。それにまたヤギは驚いて、身をよじる。オオカミの腹が鳴る。雷が轟く。
 何度、これを繰り返したことだろう。
 オオカミは前足を咥えて必死に我慢した。もはや雷なんて怖いと思っていられなかった。

 やがて雨雲が去り、名残り雲の流れる隙間から、夕暮れの日が差し込み始めた。洞窟の中が薄紅色に染まる。
 誰もいないかのように、しんと静まり返っている。
 二頭は岩のように固まって、抱き合ったままである。ごまかしかじるために使われていた片方の前足は未だにオオカミの大きな口の中にある。
「あぅあいあいあぁ」
「……何してるんですか?」
 オオカミは自分の口が塞がれてることに気付いて、慌てて前足を抜いた。舌に毛がこびり付いて気持ち悪い。
「ふぅ、ふぅ……いちち」
 血が口の中全体に薄く広がっていた。オオカミはどこ吹く風と平気な顔を取り繕って、出口の向こうの夕日を見やる。
 ヤギが離れるのを待つオオカミであったが、いつまで経ってもオオカミの胸元でこうべを垂れて、立とうともしない。沸き上がる食欲を抑えて、オオカミは声をかけた。
「ほらほら、さっさと行こうぜっ。日が暮れちまうだろ」
「それが……腰が抜けちゃって……あはは、情けないことに」
 オオカミは大きなため息をついた。
「ったく、世話がやけるな~」
「いやあ、申し訳ない」
 オオカミはヤギを背に担いで、チャカ、チャカと、少し出た爪を固い地面に引っ掛けながらゆっくりと歩き出す。背負われたヤギは照れくさそうに頬を緩ませ、オオカミの横顔を何が面白いのかじぃぃっと眺めていた。
 ただで険しい岩の下り坂、オオカミはヤギの重さと、尋常でない空きっ腹を堪えて、一歩一歩、大股で下っていく。
「オレがいたからいいけどよぉ、雷のたびに腰ぬかされちゃたまんないぜ」
「雷だけのせいじゃ、ないんですよ」
「はぁ?」
「くすくす、なんでもありません。あ、でもわたし、昔っからそそっかしいんですよ」
「そそっかしいと腰を抜かすのか?」
 オオカミの知っているそそっかしさとは、たとえば注意したそばから道端の小さな小石につまづいて転んでしまう、せっかちでうっかりなことである。
「うふふ、関係ないです」
 ヤギは笑って、そのままうやむやにしてしまった。
「もう大丈夫です。ありがとう。あっ、もうすぐ分かれ道ですよ」
 オオカミは返事をすることなく、そっと自分の身を屈めてヤギを降ろした。
 二匹がやっと岩山を下りた頃には、もう夕日が半分沈んでいた。
「じゃあ、私はこっちですから」
 ヤギが何事も無かったかのような笑顔で蹄を振り、群れの住処のあるサワサワ山の方へと身体を向ける。オオカミもまた、仲間の待つバクバク谷へと歩き出した。

 少し歩いて、オオカミは思い出したように振り返った。ぶすりとした表情で、歩き去るヤギの背を見つめた。
 ぐううぅぅ。
 腹が低く唸った。
 オオカミの瞳はぎらりと光っている。
「こんな、こんな……いいのか? オレは…………」
 オオカミは戸惑いながら、ヤギの後を小走りして追った。自分でつけた前脚の咬み傷がジクジクと痛む。
 ヤギは後ろから来る気配に気付いて振り返る。ちょうどオオカミが大きな口を開けたところで、ふたりの目が合った。生温かい空気がオオカミの喉の奥からヤギの顔に当たる。尖った牙の先からつばがしたたる。ヤギは固まってその場から動けなかった。
 オオカミはゆっくりと口を閉じて、恥ずかしそうに鼻面を掻いた。
「くぅぅ、こういうのって性に合わねぇなぁ」
「あっ、えっ?」
 ヤギは、オオカミの前脚の怪我に気付いた。まるで食いつかれたかのような傷だと思った。ヤギは何度もそんな傷を見ていたからすぐ分かった。ますますヤギは混乱した。
 オオカミの意図がわからないヤギは戸惑い、その場に突っ立っていた。
「さ、さ、察し悪いぞっ。だからよぉ……」
 オオカミは下を向いて、上目づかいでヤギをおそるおそると見つめた。悪いことをした子供がごまかし笑うように口の端をつり上げて、たどたどしく、小さく言った。
「つ、つ、つぎ、つぎはいつ、いついついつ、いつ、あ、遊ぼっか?」
 舌が横から飛び出して、疲れたような荒い息遣いに変わった。
 とたんにヤギは目を細めて、返事をした。

 西日が、暖かくふたりを包み込んでいった。

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