大空に薄く広がった雲の層を通り抜け、ほのかな陽の光が当たりに散らばっている。
ここのところは暑い日が続いたが、この日は暑さに慣れ始めた身体がほぐれるように涼しい。
バクバク谷のオオカミは、老若男女問わず皆外に出て心地良い空気に顔を綻ばせている。
「こりゃイイ天気だゼ。雨が降る心配もなさそうだしな?。遊ぶにはもってこいだっ!」
黒く、小柄で普通より痩せた身体のオオカミが、岩の段差から前脚をだらしなく放り出してくつろいでいる。どうやらこのオオカミ、今日は友達と遊ぶ約束をしているらしい。
大きく開けた口からは暑くもないのに舌が垂れ下がり、口の端は大笑いでもしているかのように釣り上がっている。今、このオオカミの内心は、狩りや食べ物ではなく、今日会うつもりの友達のことでいっぱいだった。
そんなオオカミのとなりに、のっそりとした大きめの、別のオオカミがやって来た。右目には葉っぱを丸くかたどった眼帯をつけている。
「となり、じゃますっぜ」
「おお、ザクか」
ザクと呼ばれたオオカミは隣にどっしりと腰を下ろした。
「よお、ビッチ。おまえ、いいことでもあったのか」
一方、最初に寝そべっていた痩せたオオカミはビッチというらしい。
「ともだちとあそぶんだ!」
「またかよ……お前ここ最近はしょっちゅうだな。だが、いつまでも遊びほうけてんなよ。俺たちが狩りに出る回数が減っちまったらそれだけ群れに回るエサが減るんだ。お前だって最近は前より痩せてねぇか?」
「お、オ、オレは前からやせてるっつーの!」
ビッチはそう言って怒るふりをしたが、内心ではどきり、図星を突かれる思いだった。
「か、か、狩りにはちゃんと出るって……このオレが一度でもサボったことなんてあったかぁ?」
「まあそりゃそうだな。狩りというか……オレとつるむ時間が減ったよな、正確にはよ」
ぶすっとした表情でザクは立ち上がった。
「お、お、オイオイ、待てよォ」
ビッチも慌てて立ち上がった。怒らせてしまったろうか? ザクが構わずに自分の寝ぐらに戻っていく。ビッチは何かと早口でザクを引き止めようとしたが、ザクは無視して歩みを止めない。
戻った先の寝ぐらの小さなほら穴で、大きな丸っこい身体をのそのそ揺らし、なにやら干し草の中を漁っていた。
「ガキんころから今も一緒じゃねえかよぉ。オレが耳を澄ましてエモノ探してさ、エモノをおっ立てて、んで、オメェがばくっとトドメをさして……エモノがいなけりゃ森の中をなんとなく歩いてバカ話をして……」
「そりゃお前、狩りのときはな。それ以外の時間っつーことさ。──ほれ、持っていけよ」
相棒から乱暴に投げ渡されたホオノキの葉の包みをあたふたと受け取る。元の持ち主のにおいが包みの葉っぱにはまとわりついているが、中の美味しそうなにおいは隠しきれない。
「や、ヤギィ?!」
「遊ぶんなら精が付いてた方がいいだろ。元気ないやつと遊んでも気を使わせるだけだろーが」
「そ、そ、そりゃぁ、まぁ……」
「わかったらとっとと行ってこい。ちゃぁんと食えよ」
鼻づらでぐいぐいとお尻を押され、ビッチは強引に追い出されてしまった。そのまま仕方なく谷の岩道を歩く。谷を出るまでずっと後ろには相棒が遠目から監視してくる。そのせいで、ビッチは貰った弁当を誰かにそのまま手渡すという方法はとれなかった。
かといって、背中に乗せたこの弁当を捨てるということもできない。相棒が気をやって譲ってくれたものである。ビッチにとっては、これから会いに行く相手と同じかそれ以上に、長年つるんできたザクの思いやりも捨てられない。気性の荒く、些細なことで誰かと揉めることの多かったビッチに色々と世話を焼いてくれたり、目をかけてくれたりしたのはザクだったのだ。
うじうじとこのオオカミが悩んでいる間に、待ち合わせ場所に辿り着いてしまった。
そこは、ソヨソヨ峠と呼ばれる場所の、とあるキンモクセイの茂みの中。強い香りで動物の臭いを覆い隠すその一角は、ビッチとその友達が会うにはうってつけの場所であった。とある別のオオカミが最近ここでヤギを襲って食ったというので、ヤギが避けていることも都合が好い。
食べてすぐに水で口を濯ごうにも、この近くにそんな水源や小川があるとは限らない。オオカミは茂みの中から頭半分突き出して、周りの景色を見渡してみた。手近に水の流れる場所などないらしいとわかると、頭をおずおず引っ込めて眉を落とした。焦りが募って体温も上がってきた。舌の付け根が見えるほどに口を大きく開けて、苦々しい顔でハァハァと荒い息遣いに変わる。
「や、ヤバいヤバい……」
ビッチはグルグルと自分の尻尾と追いかけっこをする子供のようにせわしなく回った。動けばさらにお腹が減ってくるのに、止まらない。ビッチはだんだんと追い詰められた気分になってきた。
もうすぐトモダチもこちらへやって来る。
白く滑らかで短い体毛に包まれ、頭からは短い角が二本。丸っこいお尻の先から生えた短い尻尾をふらふらと揺らして。
ヤギである。ビッチの待ち合わせている友達とはヤギなのだ。
あらしのよるに、暗闇の中、鼻も効かない中で、あのヤギとこのオオカミは一晩を共に過ごした。そこで意気投合したふたりは、「あらしのよるに」を合言葉に、また会う約束をしたのである。再会の折、互いの正体を知ってからもなお、ふたりは友達の関係でありたいと思い合った。
しかし、ビッチの顔はどこか険しい。
思い出に浸っていても、手元から香る肉の香りがそれを遮ってしまう。
――そういえば、ヤギの肉なんてヤギと友達になって以来口にしてないんだよな。ヤギ狩りには参加するけど、追い立てるだけで襲ったりはしない。
――うぅ、恋しい……あの味、あの食感、あの満足感……。
「ガブッとかぶりついたときの気持ちよさと美味さったらないっす」
オメェは呼んでねぇよ、ガブ。
ビッチと同じ群れにいる、ヤギが大好物の大食らいの顔と台詞が浮かんできて、ビッチは顔をさらにしかめた。
うう、こうなったらヤツが来る前に腹の中に入れるっきゃねぇ。ヤツに俺の口から出る臭いを当てなきゃだいじょうぶだっ。
食べようと決意したら、空腹がもっと強くなった。オオカミの目はうっとりと肉球の上に横たわる弁当の包みを見つめていた。
***
「だから、大丈夫だって言ってるでしょぉ」
「メイ、お前のその、のん気なところが俺は心配なんだよ。いいか?少しでも変な胸騒ぎや気配を感じたら、俺たちのトコに戻ってくるんだぞ」
「わかってるよぉ」
メイと呼ばれたヤギは少しうんざりした風に早足で歩き出した。オオカミが手をこまねいて肉の弁当に気をやっている間に、このヤギはずんずんと坂道を登っていく。それを見守る、先ほどまで会話していた雄ヤギが大きなため息をつく。そして、その後ろで興味深げに辺りをせわしなく見やる小柄なヤギ。まだ子供のあどけなさが抜けていないこの仔ヤギは、傍らの年長者ほど悩んではいないらしい。メイと呼ばれたヤギの後ろ姿をハラハラと見守る幼馴染の雄ヤギを横目に、仔ヤギは呑気に土を蹄で蹴っては浅い穴を作ってにやけている。
「まったく、タプは心配性なんだから」
そう言って、ちょうど目の前でひらひらと飛んで来たモンシロチョウを今度は前足でちょっかいを出して遊ぶ。タプと呼ばれた雄ヤギはムッとして言い返した。
「ミイ、オオカミの恐ろしさを知ったらそんなこと言えなくなるぞ」
「ワタシだってオオカミから逃げたことくらいあるし~」
ミイと呼ばれた方も負けじと突っ張った。タプは少し疲れた顔で頭を横に振った。なんで俺の周りはこんな能天気なんだ。
送り出したヤギの後ろ姿を見ていると、タプはなんだか胸騒ぎを覚える。この幼馴染の行く先に、どうも不穏な空気があるような気がしてならない。それが単なる湿気た空気の流れによるものなのか、食べられるものとしての直感なのかは彼にも区別がつきかねた。
なんにせよ、注意することに越したことはない。
「おーい、メイ!雨が振りそうになったら?」
タプは大声で呼びかける。
「すぐに帰る……」
メイがうんざりした顔で返事をする。
「オオカミを見かけても?」
「すぐ逃げる! そこまで子供じゃないってば!」
怒ってそのまま駆け出した仲間を見て、タプは少し満足気に頷いた。
「そうだ!逃げるときはその調子で走るんだぞう」
そんなタプの言葉すらも置いてけぼりにするかのように、メイは一目散に坂道を駆け登った。そうしてやがて、峠の入口の薄暗い林へとざっと飛び込んで消えたのだった。
「『ソヨソヨ峠は昼飯峠』……そんな話は私だって知ってる。でも、あのオオカミはそんなことしないはずだよ」
ここのところ隙を見てこっそりと群れから離れることが多くなったメイを心配して、タプやミイが付いてくる。しかし、群れを密かに抜け出すのは、会いに行く相手がオオカミだからであり、そのことが周りに知られてはまずい。彼らをどうにかこうにかごまかす手間がここ最近は増えてきて、そんな彼らを煩わしいと思うこともそれだけ多くなってきた。心配してくれるのはありがたいのだけれど。
つっけんどんな態度になった後で、ヤギの幼馴染たちに罪悪感を抱いてしまう。
――ああ、オオカミとヤギってなんで食べて食べられての関係なんだろう。みんなが仲良くなれればいいのに。
峠の林を突っ切った後、開けた場所にあるポプラ並木の一本道を登ると、キンモクセイの生い茂る一角がある。そこが友達との待ち合わせ場所だ。キンモクセイの香りは強く、茂みの中にいればヤギやオオカミの臭いは目立たない。
──タプから常日頃教えられて来た生き残る為の知識を、オオカミと会う為に使うなんてね。
何か珍しい草や石や枝があったら後でタプにプレゼントしようとメイは微笑んだ。
待ち合わせの場所まであと数歩。ワクワクと気分が高まってきたヤギの歩幅は一歩進むごとに大きくなった。
せーの!
茂みの向こう側へ乗り越えるほどの大きな跳躍。オオカミさんは驚いてくれるだろうか?
草の端が後脚の蹄にかする。身体の軌跡は綺麗な弧を描く。メイが見下ろす先には、はたしてオオカミがいる。
だがしかし、メイの笑顔が凍りついた。
音と影に気付き見上げたオオカミの顔も、真っ青になった。
草の上に蹄が驚くほど静かに着地する。友達はすぐ後ろにいるが、メイはとても振り返ることができなかった。吐き気さえも込み上げてくる。信じたくない現実がメイを待ち構えていた。
オオカミの目はギラギラと光り、一心不乱にぐちぐちと何かを咀嚼している。ヤギの耳の一部がオオカミの牙と牙の間からはみ出ている。
「さぞ、美味しいんでしょうね」
考える間も無く、冷徹な声が出る。
オオカミはぎろりとメイを睨んだが、相手がわかるや、たちまち呆然として咀嚼を止めた。
友達だと思ってたのに。あのオオカミだけは絶対にそんなことをしないと思ってたのに。なんでよりにもよって、待ち合わせの場所でそんなことをしてるのだろう? 理解できないししたくもない。
「さようなら」
来た道がどこかも忘れて、目には涙を溜めて、心には失意と絶望を抱えて、ヤギは鬱蒼と茂る植物の中へその影を投じた。
「ま、まままま、待て、待ってくれえ!」
本能から目を覚ましたオオカミは大声で叫んだ。しかし、その声の行く宛は姿をくらまし、ただただ空しく響くだけだった。
独り取り残されたオオカミの咽び泣く声ですらも、キンモクセイは覆い隠していく。
***
ビッチは生まれて初めて、自分が肉を食べる動物であることを憎んだ。舌に残った美味に喜んでいる胃袋を自分の口から引っ張り出して、ヤギの胃袋と取り替えて欲しいと思った。そんなことできるはずもなく、ただただ呆然と、漠然とした空想を抱いては消して、目の前のホオノキの包みを眺めていた。肉に通っていた血の染み出した痕がホオノキを醜い紅に汚している。
──目の前でナニカが咥えている肉がザクのモノだったら、……? 考えたくもない。ただただ悲しくて、どうしようもなくて、身体はきっとナニカに向かって突っ込んでくだろう。もしオレが食べてしまったこのヤギの肉の元が、アイツの大事な親友だとしたら……オレは、オレは。
「くそッ、ヤギなんかと知り合いにならなきゃよかった!」
苛立ちが突如爆発して、ドンと地面を叩く。こうなればヤケだ。追いかけて食ってやる。
後腐れもなく。キレイにぜんぶ、はらのなか。
衝動に突き動かされるままに、ヤギの去った方向へと走り出す。茂みを抜けると、まだ色濃く、ヤギの臭いは残っている。オオカミの目はニタリと嫌らしく釣り上がり、大きな口から長く垂れ出た舌の上では大量の唾液が上から下に流れて地面にポタポタ落ちていく。ひたりひたりと探るような足並みから、やがて段々とペースを上げていき、ヤギのいるであろう方向へと駆け抜ける。途中の茂みの枝葉が、オオカミの素肌に触れては小さな切り傷を作っていく。
──痛みよりもあのヤギだ。ケジメをつけてやるぜ。
妖しく光るオオカミの目は、いつものビッチの雰囲気とはかけ離れ、厳しく前を見据えていた。
***
頭の中にあの光景を浮かべるたびに、何故だかあのオオカミとの良い思い出ばかりが一緒になって駆け巡ってくる。オオカミは肉を食べる。わかっていたことなのに、あのオオカミだけが肉を食べずに何かそれに代わる画期的な物を食べていたと勝手に思い込んでいた自分にも腹が立つ。
そうして何も結論を見出せないまま走り続けて気付いた時には、自分がどこに居るのかもわからなくなってしまった。枯れた木がそこかしこに倒れており、昼だというのにそこらの森よりさらに暗い。無数の木の葉が上で隙間なく敷き詰められていて、運良く遮られずに済んだ光がいくつか、真っ直ぐな線を描いて森全体を頼りなく支えている。辺りを見回しても何も目印として覚えているものはない。どれもこれも同じような木の連続だ。メイにとって全く初めて来る場所であり、このように見通しが悪くては自分の住処の方角さえ把握できない。
「どうしよう……」
生き物の気配はまばらだ。鳥やコウモリさえ居てくれたら良かったのに、少ない気配の正体はほとんどネズミだった。
草を食んでみる。あまり美味しくはない。なるほど来たことがないわけだ。頭の中がオオカミと自分のことでいっぱいになっていて、迷ったときの戸惑いはあまり感じない。とりあえず来た道を戻っていけばなんとかなるだろうと、体の向きを反対にした、その途端のことだった。
咄嗟に低く身構える。身体が小刻みに震え始めた。草の不自然に揺れる音が恐怖心を煽る。オオカミだ。姿はまだ見えないが、こういうときはたいていオオカミなんだ。勘でわかる。
最悪だ。次から次へと。きっとあのオオカミに違いない。
相手を欺いて平静を装い、虚をついて逃げ出すという方法はとれない。自分と相手は互いに認識をはっきりとしているし、標的は孤立した自分ひとり以外にはこの森にはいやしない。
メイは足に力を込めて思い切り地面を蹴った。とにかく全速力で走る。背後から荒い息遣いが聞こえてくる。相手はまっすぐこちらを追いかけてくる。お互い、なりふり構っていられないのだ。怒りも戸惑いも全てを頭の片隅に押し込んで、考えることはただ生きたいということだけだった。
しかしメイにとってこの環境は不利である。障害物が多くても、どこかもわからない場所で出口さえ見つけられない。木々をジグザグに駆け抜けたところで、この地を知っているらしいオオカミにとってはメイの動きは単調だ。そうしてジリジリと差が縮まっていき、メイのすぐ後ろにまでオオカミは迫ってきた。首を捻って背後を振り返るだけでも隙になり、即、捕まる。
ただでさえ慣れない土地で、見通しが悪く、また足の速いオオカミに捕捉されてしまった。
背中が抉られる激痛と共に、メイはオオカミともつれ合い、地面に叩きつけられた。
***
オオカミは激痛で動けないヤギに圧し掛かった。仰向けのヤギと向かい合わせになり、オオカミはこれから食べようとするトモダチだったエサを大きな目でまじまじと見つめた。こうして見ると肉付きも良いし、いつも狩っているヤギの中では上等じゃないか。大量のよだれがヤギの首筋にかかって、毛の間を伝って地面にまで滴り落ちる。
ヤギは歯を食いしばって溢れる涙を必死に堪えようとする。それでも今から待ち受ける恐怖が大きすぎて、感情の堰を食い止めることはできない。
「うわあぁぁあぁぁぁぁ!」
断末魔のような甲高い声にオオカミは怯んだが、それでも差し押さえるオオカミの前脚はヤギの首根っこを掴んで離さない。むしろ、あまりの大声に思わずオオカミはヤギの喉をきつく締め上げてしまう。ヤギはむせ返り、苦しそうにメエェと呻いた。
「し、し、し、静かにしろヨッ!」
ヤギはオオカミの言葉に憎々しげな視線を送る。あなたがそうするから私ももがいてるんだ。
頭だ、頭を一気に噛み砕いてやる。オオカミはどこか急かされるような気分だった。早く殺さなければ。食わなければ。
会ってまだ何回かしか会ってないのに、今やろうとしていることにヤメろと命じる誰かが、オオカミの中にいた。自分の胸の鼓動がいやに大きく聞こえてきて、オオカミは頭の中が心の声と心臓の音でいっぱいになった。自分がいったい何を次に考えればよいのかがいよいよわからなくなってきた。
首を強く締められて呼吸もままならないヤギはいよいよ意識も朦朧となってきた。オオカミは私を苦しませるためにわざと焦らしているのだろうか。その割にはオオカミの目は、今はギラついていないようにも感じる。息ができなくて苦しむくらいなら、いっそ急所を鋭い爪や牙で引き裂いて一瞬で終わりにして欲しい。ヤギは弱った意識の中で願った。まあ、見知った相手に殺されるのであれば、誰ぞとわからない無関係なオオカミに殺されるよりはマシか。そうも思う。
逡巡するオオカミはそんなヤギの諦めかけた内心なぞつゆ知らず、様々な感情でない交ぜになって、既にオオカミらしい振る舞いがどんなだったのか、忘れかけている。口を大きく開けては牙で威嚇するのだが、そこから先へは中々踏み出せない。
半ば自棄になって、オオカミは叫んだ。
「くぅっそぉおぉぉ!」
迫り落ちてくる牙にメイは目を瞑った。ああ、終わった。タプの言う通り、オオカミなんてろくなもんじゃなかったよ。ミイ、モロ、おばあちゃん、こんなバカな私でごめん。
しかし、思ったほどの衝撃や痛みはない。死ぬってけっこうあっさりなんだな。おや、顔に何かが滴っている。死後の世界には雨も降るのだろうか。メイは少しとぼけて目を開けた。目の前をゴワゴワした毛の塊が塞いでいる。ポタリ、ポタリ。雨ではなく、液体はこの塊から落ちてきているみたいだ。なんだろうか。
オオカミの臭いが鼻の中に充満している。ゴワゴワした毛の色は黒茶色だ。僅かに見える自分の鼻面の上には真紅の染みがべっとりとこびり付いている。
――血、血? 血だ。オオカミの血。
そしてヤギはまだ自分が生きていることに気付いた。いつのまにか首も楽になっていて、呼吸もしっかりとできる。鼻腔にいっぱいに満ちた肉食の臭いがやや気に障ってしまうが、今はそんなことどうでもいい。
「な、なんで……?」
目の前の毛の塊はオオカミの前脚だ。メイはそこでハッと思い出した。
初めてこのオオカミとピクニックに行ったあの日……あの日も確か、帰り際、オオカミは同じ方の前脚に何か怪我をしていた。なぜ怪我をしたのかわからなかったけれど、それに構わず自分をおぶって山を下りてくれたから、あの時は素直に嬉しかった。オオカミにもこんな優しい奴がいるのだと。もしかしたら本当に一生モノの親友になれるのかもしれないという期待が湧いた。岩山のてっぺんで遊んだとき以上に、心が温かくなった。
前脚に思い切り噛みつきながら、目を見開いて必死に目の前のエサを堪えるオオカミを見て、メイの怒りは鎮まっていった。自分でもどうかしていると片隅で思いながら。
オオカミはきょとんとした表情で、自分のしていることがはっきりとわかっていないようである。理性が陰で働いて、本能としての答えを先送りにしただけなのかもしれないが、メイにとってはオオカミの拍子抜けた顔で、怒りの感情がついに消え失せた。
本当に、どうかしてるよ。
「ありがとうございます」
「う、うぅん?あんえ……」
自分の行動に混乱しているのに加え、ヤギの思わぬ発言にますますビッチの頭はこんがらがってきた。今度は別の意味でビッチの頭の中がうるさくなっている。どうすれば自分の顎をこの噛み付いている足から引き離すことができるのか、わからない。
メイは仰向けのまま、無言でオオカミの気持ちが落ち着くのを待った。目の前で統制のとれていない口と脚に悪戦苦闘するオオカミにくすりと笑った。オオカミはちょっとムッとしたが、殺して食いたいというほどではない。ちょうど親友にからかわれたときの軽い気持ちの高ぶりと同じものだ。
ギラついた目は、今ではすっかり丸くなっていた。
ようやく自分の身体の動かし方を思い出したビッチは、微笑むヤギに向かって
「な、な、なんでそんなに嬉しそうなんだよ。食われなくてホッとしたとかか?」
と困惑して言った。
「それもありますけど、ようやくいつも通りの私達になったなぁって。ほんの数回会っただけですし、ついさっきまで命のやりとりしといて、いつも通りって言うのもおかしな話でもあるんですが……それより、その脚の傷は大丈夫なんですか?」
「こんなの、ツバつけとけば十分さっ。お前だって傷だらけじゃんか。背中とか酷いことになってるぞ」
「誰かさんから逃げるのに必死でしたもの。それに背中は完全にあなたのせいですよね。イタッ!」
オオカミが話をぶり返したせいでギリギリとした鋭い痛みも思い出したかのようにメイを苛む。
ビッチはどうにかしようにも、ただ顔を歪ませて我慢するヤギを見ることしかできない。
「オレが話す前から走り出したのはお前じゃんかよぉ。ま、まぁ、その後に殺す気で追いかけたのは間違いねぇんだけどよ」
何を言い訳がましいことを言ってるんだ、オレは。ビッチは素直に謝れない自分にイラついた。
しばしの沈黙が流れる。ヤギがもぞもぞと動き出して起きたい旨を無言で訴えてきたので、ビッチは素直にどいた。二匹とも改めて向かい合い、腰を下ろして座る。ほんの少しの間の出来事なのに、二匹とも数日くらいの時間を過ごした気分だった。どっと疲れが押し寄せてきて、二匹は同時にため息を吐いた。深い森の中、薄暗くじめじめとした空気が、なんだか彼らにとってはとても懐かしく感じられる。
「あなたもヤギを、食べるんですね」
唐突なヤギのはっきりとした物言いにビッチは面食らった。
「せめて私と会う日くらいは我慢して欲しかったです」
ここ数日はメイの群れで誰かが食われただとか行方知れずになったとか、そういったことは聞かない。おそらく別の近辺の群れの黒ヤギか縞ヤギなのだろう。無関係だろうともメイにとってはいい気はしない。
「あ、いや、あの……しょうがなっ、くはないよな、ウン。た、た、確かに、オレがもう少しガマン強ければ、こんなことにはならなかったもんなぁ。土に埋めて後に残しておくとかもできたなぁ……。あ、言っとくけど、オレが仕留めたわけじゃないぞっ。親友から貰った、大切なもんだから! 捨てろだとか誰かに譲れだとか言われても、そんなのできないからな!」
オオカミの強い剣幕に、今度はメイが縮こまった。
「……オオカミの親友、ですか?」
「赤ん坊のときから一緒なんだよ。ザクってんだけどよ。あ、オレの名前はビッチだぞ」
ふと小さなことに気が付いたかのように自己紹介を付け足したビッチという名のオオカミが面白くて、ヤギは思わず吹き出した。
「あははは!そういえば今の今までお互いの名前もわかりませんでしたね!私はメイです」
「お、おおぉ、いかにも美味しそうな名前してるなぁ……」
「素直な感想ありがとうございます、ビッチ」
悪びれもしない相手に呆れる。まあそこが良いんだけど。
「──さっきあなたがしていたことは未だに私には受け付けられないんですが、まだあなたと仲良くしたいという気持ちもあるんです。だから、……そのぉ…………」
何故か気恥ずかしくて、きょとんとするビッチから顔を背けた。
「また一緒に遊びましょうね」
別れ際に必ず言っていた台詞が、どこか凛とした輝きと重みをもって、ビッチの耳から心に響いた。今日、二匹の間で起こった一悶着は、到底水に流せるような軽いものではない。これからもずっとふたりに課せられる難題かもしれないが、それでもなんとかやっていけそうな気がした。
ビッチは生まれて初めて無言でゆっくり頷いた。
「ひみつのともだち同士って大変だけどいいものですね」
メイもまた安堵の表情を浮かべて吐息に近い微かな笑いを漏らした。
ビッチの鼓動が高鳴った。
「あ、う、ひみつの、トモダチか……」
狩りの際の感情の昂りでも、ボスに怒られそうになったときの緊張感でもない。綺麗なメスオオカミに話しかけられて舞い上がったときの心臓の動き方だとビッチは思ったが、ヤギにときめいている自分をどうにも認めたくなくて、目線は無意識に上向き泳ぎ、枝葉の天井を意味もなく眺めた。
「ところで、ここからどうやってソヨソヨ峠に戻るんですか?私迷っちゃいまして」
「お、お前なぁ……ちゃんとついて来いよ?」
優しい笑みから苦笑に移り変わる目の前のメイにビッチは眉を潜めながら、差し出された白い前脚を爪の潜んだ土塗れの手で優しく包み、優しく引っ張った。
傷だらけの身体をお互いに笑い合う二匹の姿は、無数の樹蔭の景色の中へ溶けていった。