ビッチとメイがお互いの群れで外出を禁じられたこと。それはメイにとって大して驚くべきことではなかった。秘密がバレることは避けたいものの、背中に刻まれた裂傷がそれを隠してくれるのである。メイはオオカミに襲われたと言えば済むことだった。
 内心では、そんな打算的な言い訳ができてしまう自分自身に腹が立った。
 メイにとって気がかりであったのは、一体どれだけの間、サワサワ山から出られないのか。水で濡らした薬草が傷にじわじわしみるのを堪えながら、メイのため息は決まった間隔で出てくる。
 そんなメイの様子に、温厚な祖母はまた違う意味でため息をつく。
「まったく、メイや……あなたの傷が治るまで辛抱なさいな」
「ばあちゃん……」
 でも遊びたい、とは言えず、言葉に詰まる。いや、遊びたいという言葉も本心ではない。ただ会ってのんびりするだけで十分だった。それをなんと言っていいのか。あのオオカミ……ビッチのことを明かしたら、傷が治るまでではなく、メイが改心したと確信するまで山の中で暮らす他無くなってしまうだろう。

 メイの祖母は動けないメイに様々な話を聞かせてくれる。祖母の昔話であったり、メイ自身の小さな頃の話であったり、それらを聞く分にはメイも心穏やかでいられた。暗がりの中、お互いの顔もわからずに洞穴で他の群れのヤギと夜を語り明かした祖母の思い出話に驚かせられることもあった。彼女の場合は結局、少し離れたところの黒ヤギがその正体であったのだが。もしかすればメイや祖母の血筋はそのような不思議な交流に恵まれている遺伝をもっているかもしれないと、メイは思ったものだった。
「本当は今年からメイも挨拶に連れて行かせようかと思ったけどねぇ……」
「えっ、いいの?でも一応、私も黒ヤギたちのいるパラパラヶ原の行き方くらいは知ってるよ」
「いいえ。あなたが言ってるのは危険で迷いやすいマガマガ森を通る道でしょう?あなたくらいの身体つきになったら、もっといい近道があるのよ。メソメソ山を越える、ね」
 メイは慌てて体を起こそうとする。しかし背中の塞がりかけた傷が疼き、すんなり立つどころか、再び膝を折って地面に腹を着いてしまった。
「ああもう、そそっかしい子だねえ。元気でないと狭い道を歩いたり急な坂を登ったりはできないよ。その歳で無理をして腰を悪くしたらあなたのお母さんに言い訳が立たないしねえ。だから今回は我慢しなさいな」
「はぁーあ。その近道ってばあちゃんだけが知ってるんでしょ。気にならないはずないよ」
「あなただけの秘密の場所を、そろそろ自分で作ったり切り拓いてみたりするべきだと思ったから、特別に私の道を教えるのよ。もしものときのためにね。まあ、あなたが私にとって可愛い孫というのもあるけどねえ」
「面と向かって言われるのは恥ずかしいな……」

 そんな会話があってから、メイはひとつの言葉にちょっとした興味を持っていた。「秘密の場所」というのは、ビッチとの会話で偶然口から出た言葉でもあった。
 確か初めて顔を合わせ、一緒に遊んだある晴れた日のことだっけ。あの一緒に目隠し会話ごっこをして遊んだ場所……比較的高いところにあるその台地は、嵐によって平野からの獣道が安全に使えなくなってしまって──

──でも、でも、そうってことはよ、オレたちの縄張りってことだぜ。

──なわばり?

──だって、最後につばつけたのはオレたちで、しかももう、ヤギでさえも来れない場所ってことだろう?なら、オレたちのモンだ。

──ひみつの場所ってやつですか。

──それそれ!そういうこった!

 メイの顔は綻んだ。あのときのビッチの勢い任せの一見てきとうな主張は、ビッチの良い所が詰まってるように思う。きっと群れの中でもあんな忙しない口調なんだろうな。心がそのまま口から出てきているようで、彼と面と向かって喋るのは少し照れくさく、そして温かい。開いている口から漏れ出る息の臭さにはたまにウンザリするけれど。
 祖母とのやり取りでもう一つ気になったところがある。「もしものとき」とはいったいどういうときなのだろう。普通に考えたらオオカミに追い立てられて逃げ込んだりする状況が浮かぶ。きっと祖母もそれを思っているのだろうが、祖母がそれを旧友と出会うための道としても使っているのなら、何も危機的な状況だけでなく役に立つのかもしれない。

──私が秘密の友達をもっていることはさすがにばあちゃんも気がついているのだろう。せめてひとりで出かけるのならオオカミに襲われる心配のない場所を探しなさいと、そういう意味も込めているかも……考え過ぎかな。

 幼馴染のミイやタプ、モロと話しているときやのんびりしているときでも、秘密の場所のことはメイの頭からなかなか離れなかった。
 夜の冷え込みは少しずつ増していく。身体を縮め、半月を眺めやる。ぼんやりと頭の中で考えを散歩させていくうちに、メイはもう一つ思い出した。ビッチが前々から連れて行きたがっている場所があるということなのだが、なんやかんやとあって未だにそこへ連れて行ってもらっていない。きっとそれはビッチにとっての「秘密の場所」に違いない。メイは微笑み、また会ったらその場所へ連れて行ってもらおうかなと緩い決意をした。
 まどろみの中、ふわふわとした意識……。最後に浮かべたのはビッチの豊かな笑い声だった。

***

 あのヤギの怪我の治りがどれほど掛かるのかはビッチにはわからなかった。少なくとも、自分の脚の自分で付けた傷よりは手間取るに違いない。
 お互いの群れにいる間、決まった時間、決まった場所で明日会うかどうか、いつ会えそうか…………そんな合図を、ビッチは石を決まった形で敷き詰めて、メイは草を倒して模様を作って送りあうことになっている。ここしばらくメイからそういった合図は来ていない。あの暗い森の下で起こったビッチとメイの命のやり取りのあと、ビッチは深く考えず、メイと軽く遊んだ。仲直りの意味も込めてだ。振り返ってみるとそれはメイにとって辛いことでもあったのだと、外出禁止を言い渡された数日後にようやく気付いた。

――傷が悪化して膿んでいたらどうしよう。

 バクバク谷から出られたのなら真っ先に会いに行って謝りたい。思い悩むあまり、たまに奇声が出てしまう。またバカやってんぜあの野郎と言われても、こちらにとっては切実な問題だ。
 狩りの習慣から離れて暇になった身体を持て余しながら、耳をぱたぱた、鼻をひくつかせ、尻尾をゆらゆらと揺らして、メイの合図を待ち遠しく、暮れる日に横顔を照らされ、ぼうっとサワサワ山を眺める日々が続いた。

 そうしてようやく、月も半分まで欠けた頃、サワサワ山の近くの丘、緩やかな斜面いっぱいに生えるヨモギの一角……草を踏み倒してできたであろう、大きな四角い線が描かれた。
「しばらく会えない、ね……そりゃそぉか」
 ビッチは大きめの石を並べ、メイの出した合図と同じ形を作った。相槌は同じ形を作ることと決めている。
「何をしている」
 メイからの知らせがあったことにすっかり安堵していたビッチは、背後の声に背中を刺された気がして文字通り動転した。反射的に並べた石をめちゃくちゃに引っ掻き回し、ついでに転んで背中を硬く尖った石に勢いよく打って余計にもんどり打つ。あまりに急な動きなものだから、怪我をした脚もきりりと悲鳴を上げた。
「……本当に何をしているんだ、ビッチ」
「あぁーー!ギロさん! おはようごぜえやす!」
 痛みで目から涙を溢れさせながら、ビッチは大声で挨拶した。
「バカ野郎、もう夕刻だ。昼寝してたわけでもねぇだろう。何をしていたんだ」
 ギロと呼ばれた左耳の欠けたオオカミは表情を少しも変えることなく、転がるビッチを見下ろした。左の瞼から頬に掛けて大きく抉られた古傷が、それ自体は何事もしていないのに、ビッチを内心大きく怯えさせた。
「あ、あ、あのその……石で遊んで、やした」
「本当か? フフン、お前がか……そんなに退屈してるか?」
「ま、まあ……た、たた退屈といえば退屈…………」
 すっかり萎縮したビッチは目が泳ぎ、尾を股の下に潜らせ、腰が引けている。ギロが群れの長であることを差し引いても、やり過ぎなほどに自分の身を小さく見せようと頑張っていた。
「何か隠していることがあるんだろう。ただでさえバリーのヤツから当たりが強くなってるんだ。やましいことでないのならはっきりさせといた方が楽だぜ。そのときは俺やバリーからブン殴られたり怒鳴られるかもしれねぇが、根に持つことなんかしねぇよ」
 ひええ、やっぱおっかねぇよ……とビッチの内心は震え上がった。

 ビッチがバクバク谷から出るのを禁じたのは他ならないこのギロなのである。脚を噛んでつけた傷はビッチの思った以上に波紋を呼んでしまったのだ。
 ただ怒鳴りもせず、静かに言い渡したビッチへの罰は、表面上は穏やかだ。だからこそ、ビッチはギロから問い質される日がいつか来ることを確信していた。群れの長がそんなに甘いわけがない。

「ところでお前……俺たち群れの鉄の掟は覚えているか?」
「うぅ、うらぎりものは、ちのはてまでもおってかならずショケイする…………」
「そうだ。群れへの裏切りは俺たち全員の生き死にに関わるからな。自然が勝手に裁いてくれるなら楽なんだが、俺たちが始末しなきゃなんねぇのさ。特に……餌を取り損ねたとか、仲間と喧嘩しまくるなんざよりも困るのはな、ビッチ、」
 ギロがゆっくりと歩み寄って、ビッチの首に自分の頭をそっと乗せる。動きも口調も冷静であったが、ビッチにはいっそ怒鳴られた方がマシだと思えた。背筋に怖気がスッと走り抜け、背骨が凍りついて微動だにできない。
「他の群れの奴らと結託して俺たちを脅かそうとすることだぜ。あちらさんにそんな意図が無かろうと、俺たちがそう思ったのならそうなのさ」

 首にそっと乗せられただけなのに、気持ちがずしりと重くなって身体ごと落ちてしまいそうだ。
「友達だとか恋仲だとかを他所に作るのは勝手にしろ。が、そういった心につけ込んでな、いつの間にやらこっちの猟地を侵してくる奴らもいるのさ。どうだ?」
「ど、どうだって……」
「お前の新しい相棒さ。ま、言いたくねぇのなら『今』は言わなくてもいいぜ。このところははぐれオオカミ一匹も見かけんし、俺たちの杞憂で済めばいいんだがな。さてと……」
 ギロがおもむろに頭を上げ、何事もなかったかのようにビッチに背を向けた。
「そろそろ狩らねぇとな。ルルの子供も腹を空かせている。やはりヤギがいい……」
 ルルとはギロの妹のことである。今年の初夏に産まれたばかりの子供を抱え、ギロや番いにはたいそう大事にされていた。ギロも流石に肉親の子供を前にすると優しい顔つきになるらしいが、ビッチは一度もそんなところは見ていない。

 あばよと普段通りの声でビッチに声をかけ、ギロは子分を率いてどこかへと去っていった。もちろんザクも一緒だろう。ビッチは地面に散らばったメイへの合図用の石ころを岩場の隅にかき集めながら、やはりこの群れで一番強くて怖いのはギロさんだと思い直していた。身体の震えがどうしても止まない。

──言えるわけねえ!オオカミだったら言ってたかもだけど、友達がヤギなんて、口が裂けても言えるわけがねぇよ!

 殊更ギロには言えない。ヤギにはエサ以上の感情をギロはもっているが、それはビッチとは正反対のものだからだ。
 翌日からギロのビッチに対する調子はいつものようになったが、ビッチにとっては以前よりもギロに対する苦手意識が強くなってしまった。なるべく普段通りにしていても、ひとりでいるときにはため息が漏れる。会えない寂しさと、狩りに出れないもどかしさと、ギロから感じる重圧感だ。今までだってこんなに悩むことは無かった。
 そんな内面では鬱屈した日々は長いようであり、短いようでもある。メイがヨモギの丘に数本の線を描いたのを見て、ビッチは踊り出しそうになった。
 そのうえ、地平線の上に浮かぶ月は満月に近い。待った甲斐があった。
「ま、もうすぐで会えるし、狩りに出れるからいっか」
 細身のオオカミは口をあんぐりと開けて嬉しそうに舌を揺らした。

***

 バクバク谷に暖かな陽光が降りかかる。
 夏の暑さは忘れ去られ、朝方には赤い日差しと共に涼しい秋風がオオカミたちの住処に流れ込むようになった。バクバク谷から眺める景色には白い不定な固まりが森や平野を包み込んでいて、いつもは見えるはずの山並みは遮られていた。ここもじきにそれに飲まれていくのだろう。
 ザクはビッチの寝ぐらを覗き込んだ。もぬけの殻だ。彼がいつも下敷きにしている平かな岩に肉球を置くと、すっかり温もりは消えてしまっている。
 ため息と共に、ザクののっそりした図体が上下に大きく揺れる。
「アイツ、怪我が治ったと思ったら……」

 前脚に大きな咬み傷を作ってよたよたと帰ってきたあの日、少なからず群れには騒ぎが起こった。ビッチは自分で咬んでああなったと言ったが、なぜそうしたのかを問うと途端にしどろもどろになり、納得のいく答えは出なかった。
 バリーという、ビッチ以上に気性の荒いザク達の兄貴分は首根っこを引っ掴んででも口を割らせようと躍起になった。もし別の群れが襲ってきたのならば報復しなければならないと考えているのだ。ギロという群れのボスは追求することなく、月の満ち欠けが一巡する間、バクバク谷から一歩たりとも出ることを禁じた。ちょうどその日は満月の夜だった。
「原因が別の群れの襲撃にあるならば、ビッチがいなくとも事態は動き出す。皆、警戒を怠らず、常に複数で動くようにしておけ」

 そうしてやっとビッチはバリーの乱暴から解放されたが、谷に閉じ込められてとにかくストレスも溜まり、月の満ち欠けが一巡したのを見計らって飛び出した……というのがザクの推理である。
「複数で動けって言われてんのによ、ったく……どこ行ったアイツめ」
 口ではそう言ったが、概ねの見当はついている。ギロやバリー達は気付かなかったろうが、ビッチが脚に咬み傷を作って帰ってきたのは今回だけではない。
 一度目は確か、離れた所にいる友達とピクニックに行っていたという。帰ってきた後、ザクが傷に気付いて訳を訊くと、ギロやバリーに言ったのと同じように、自分でうっかり噛んでしまったとか。

──いくらアイツでも二度もそんなドジをするのか? 俺と一緒に過ごす間に似たようなマヌケをしたのを見たことがねえぞ。

 ビッチが自分の知らぬ間に別の群れのオオカミと友達になり、頻繁に会うようにしているのは知っている。彼は彼の生き方があると、気にしないでいようとしてきた。二度目の傷を作ってくるまでは。
 がらんどうの寝ぐらの中で、ザクは無意識のうちに親友の寝床の周囲をぐるぐると歩き回っていた。

──傷を作ってまで会いたい奴とは? そこまでして会う価値のある奴なのか?

「いや、むしろ……悪いオオカミに騙されていたり脅されていたら」
 ふと立ち止まり、ザクの目線は地面に落ちたまま動かない。
 この一月近い間に何も不審なことは起きなかった。別の群れのオオカミがふらっと俺たちの領分に迷い込んだとかも無い。いたって平和で今まで通りだし、小動物やヤギ達も変な噂をしていない。さらにビッチには、やろうと思えば密かに谷から出られるタイミングもあったが、どういうわけだかそんなことをしたいと思う雰囲気も素振りも表情もなかった。奴にしては辛抱強すぎる。
 あのオオカミは考えていることが表に出やすい性分だから、すぐに事情がわかるはずだと高を括っていた。今でもその認識は変わらずにいる。谷で一緒に過ごしていると、ビッチに外の友達ができる前と同じ時間の流れを感じる。本質はおそらく、何も変わってはいないと思う。
「ますますわからねぇぞ。…………あぁもう!」
 においはまだ残っている。追えば間に合うかどうかは五分五分といったところ。考える時間が惜しくなって、ザクはどしり、大きな一歩を前へ踏み、半ば焦燥に背中を焼かれ、バクバク谷の曲がりくねった道を駆けて下りていく。
 谷の入り口まで差し掛かったところで、寝ぼけた目をパチパチと開け閉じしているガブが彼を見つけた。
「何してるでやんすか。ひとりで行っちゃダメでやんす」
「ちげぇよ。ビッチが先走っちまってオレが……」
「オレが?」
「──いや、とにかく、ビッチと一緒に行ってるから安心しろ」
「そうでやすね。ザクがいればビッチも無茶はしないでやんす。じゃあオイラはもう一眠りするかな〜」
「オウ、眠っとけ眠っとけ」
 ガブの頭が冴えていなくて助かった。ザクは彼の甘さに初めて感謝した。彼が身体を翻し寝ぐらへユラユラ帰っていくのを見届けるもすぐに、彼は走り出した。

 やがてにおいは森の湿った空気の中へ溶けていき、彼の行き先はわからなくなった。ビッチの行きそうな場所へがむしゃらに駆けていく。花が好きである彼の好みそうな場所ならいくつかアテがある。ザク自身は花にあまり興味はないが、寄り道で彼がザクを案内してはお気に入りの花を見せ、聞いてもないのに勝手に語り出すこともあった。
 しかし、綺麗な花なんていくらでも咲いている。名案だと思ったが、結局しらみつぶしだ。ザクはうんざりしてきた。目が一つしかないから、目を凝らすのも早々に疲れた。
「探索ってのはビッチみたいなのがやるんだよ……なんでオレが……はぁ」
 気持ちが少しずつ滅入ってきた。霧が周囲を漂い始める。森の木々で細々と遮られた景色がどんよりと濁る。冷えた空気も一緒に流れ込んできて、ザクの分厚い肉体にもいくらかの寒気を覚えさせた。
 愚痴をこぼしながら今度は当てもなくほっつき歩く。心配よりも苛つきが彼の頭にもたげてきて、見つけたらどんなことを言ってやろうかと考え出す。

 どのくらい歩いたのか、ふと冷静になると、真っ白な霧の中でどこかもわからなくなってしまった。少なくとも彼らの領分の外に出たということはなさそうだが、ここまで濃いと目印にしている木や岩は目の前まで近付かなければわからないだろう。
 ザクは恨めしげに辺りを見回し、匂いを注意深く嗅いだ。
 じめじめとした草木の匂いばかりで、動物の痕跡はほんの少しだけ。
 ため息をつき、一番近くの木の下で腰を下ろし、身体を丸める。運悪く寝床を塞がれたらしいネズミは迂闊にも鳴き声を上げ、直ぐにザクの爪に掬い上げられ口の中に放り込まれた。
 顎の力を思いきり込めてモノをすり潰し、血の臭いをほのりと口の端から漂わせる。久しぶりの朝メシだな、と思いながら、目を閉じてさらに身体を丸める。微かな風が草花を撫で付ける音や、小動物がザクの目の届かないどこかでそそくさと歩き回る音に集中して気を紛らわせた。
 そして「ビッチのことなんか知るか」と心の中で毒づいた矢先のことだった。

 ヒュルル ヒュルル
  ぼくはかぜ
 ヒュルル ヒュルル
  みえないけど
 ヒュルル ヒュルル
  ぼくはかぜ
 ヒュルル いつも
  そばにいる

「……誰だ、今のは」
 風の向きが悪い。ナヨナヨした声だ。どんな奴かはわからないが、群れの連中にあんな声の奴はいない。
 すると今度は別の声が聞こえてくる。

 木の葉が くるくる ルルル
  舞い落ちてゆくのはね
 その下で ボクが ルルル
  踊っているからさ

「なんとまあ能天気な歌だぜ」
 甲高い声が耳に障る。間違いない。ザクは舌打ちしながら立ち上がり、忍び足で声の方向に寄っていく。
「ビッチのやつ……」
 誰とつるんでやがる。
 呟きは低い唸りの中に紛れた。
 ビッチとナヨナヨした声の誰かは相変わらず歌い続けながら深い霧の森の中を歩いていく。付かず離れずの距離でザクは首を垂れがちにそろりと付いていく。湿り気と不安定な風の流れに乗る雑多なにおい、ビッチのせいであろう様々な花の香り……肝心の、ビッチがつるむ相手がそういったものに上書きされてわからないのがもどかしい。
 ザクは自分がどこにいるのか全くわからないまま、だがそれを全く気にも掛けずに、ひたすら彼らの後を追っていた。
 露を帯びた雑草に足を濡らし、地面の薄い泥の層に肉球の跡がペタリと残る。霧は相変わらず深く下りていて、方向感覚の麻痺はもちろんのこと、ときおりザクは自分が追いかけているのが本当にビッチなのかわからなくなった。無言な自分をよそに、前を歩くふたりはとても親しげに、雑談に花を咲かせている。不安げな様子はない。

「それにしてもすごいですねえ。なんでビッチは道に迷わないんですか」
「そりゃあ、俺にとっての縄張りだからだぜ。ヘッヘ! 自分の好きな場所への道だから、どんな天気でもどんな道を行けばいいのか、なんとなくわかっちまうんだヨ。というか、花をよく見とけばいいんだけどな」
 ビッチの妙な特技がここに来て生かされるときが来たらしい。そんな特技があることを以前に言っていたような気がする。ただザクは信じようとはせず、話半分に流していたのだが。
 途端にザクの胸にはざわざわと不快な感情が沸き上がった。俺はビッチの何をどれだけ知っているのだろう。

 前を行くビッチとその連れの後を、じっとりとした目つきで追うザク。不意にやってくるヤギの臭いに涎が出てきては飲み込む。しかしビッチは一向に構わず、霧の中を歩いていた。いや、霧の中に隠れていてはビッチの様子もわかるはずがないか、と思い直す。
 やがてヤギの臭いがちらつく回数が多くなってきた。ビッチの足取りは変わらないままに、連れを楽しそうに案内している。ある程度の距離を置いているザクの耳にも時折入ってくる、その特徴的な甲高い声は聞き間違うはずもない。まるでヤギの存在など知らんぷりしているかのようだった。ナヨナヨした声の方も一向に臭いのことを口に出したり、狩りのために気配を消そうとする努力もしない。
 奇妙なことに、ザクの鼻がヤギの臭いに研ぎ澄まされていくにつれて、それはビッチのいる方から流れてくるのを感じる。ついに鼻の感覚も狂ったのかとザクは自分に呆れた。

 やがて森を抜けたのか、白い闇に連なる薄ぼんやりとした細い影の縞模様が途絶え、足元には色とりどりの花々が広がるようになった。ビッチの歩く速さも鈍くなって、ザクが少しでも普通の速さで歩こうものなら彼らにすぐ追いついてしまいそうだ。
「オレはここをハナハナヶ原と名付けたぞっ」
「へぇ~~、こんなところがあったんですねぇ。黄色い花や紅い花がたくさん咲いてますよ。あ、これとかかなりうまそ……じゃなくて、晴れていればさぞキレイなことでしょうね」
「ヤギって花もバカスカ食べるのか?」
「美味しければ食べますね……あっ」
「ギャハハハ!ここの花は食っちゃダメだからな!いや……だ、誰にも教えないなら少しくらいはいっか」
 ザクの目は丸くなった。瞼がこれでもかと開き、眼帯の裏に隠された目の跡も引きつって痛いほどだった。
――ヤギ、ヤギ、だと……?
 思わず叫びそうになる。鼻に届くヤギの臭いが憎たらしいほど強く感じる。飛び掛かりたい衝動が四本の脚に注がれ、今にも地面を離れそうだった。それを必死にこらえ、頭の中では今までの出来事が次々と思い浮かんでは繋がっていく。
「アイツ……自分の脚を噛んで我慢してるんだな」
 ポツリと呟いて、丸くなったザクの目は次第に冷たさを帯びていった。
――今に我慢なんてしなくて済むようにしてやる。間違った友達なんて、もつものじゃない。
 彼らににじり寄るザクの脚に、小さな花が潰される。

***

 ふとメイは身体にぴりぴりとした空気が当たるのを感じた。
 ビッチは花の咲いていない地面に腰を下ろして寛いでいる。ビッチから来る空気ではない。尻尾まで振っているし、本当にこのオオカミは花が好きらしい。ぴりぴりとした空気なんて出しようもない。
「ビッチ……ビッチってば」
 メイは小声で呼んだ。一方のビッチは声に気付きはしたが、まだ自分の愛でている花の方に気を取られている。
「ここから離れた方がいいです。嫌な感じがします」
「おいおい、お花は何も悪いことしてないぜ」
 あまりの無頓着にメイは頭を抱えたくなった。しかも声が大きい。そのせいか空気がまた一段と痺れてきた。
「なんで気付かないんですか。早くここから逃げないとダメな気がするんですよ……!」
 メイはビッチの腹の下に頭をねじ込んで無理にでも彼の身体を地面から離そうとした。柔らかい肌に角が食い込んでビッチはたまらず腰を上げた。一仕事終えたように息をつくメイをビッチは睨んだが、メイの顔も負けじと険しい。ビッチはそこでハッと思い出した。

──あ、これは狩りでたまに見るヤギの顔じゃんか。

「……オオカミか?」
 ビッチはようやく真面目な顔になった。それでも他のオオカミと比べるとだいぶ気の抜けた顔であるが。
「そうですよ、たぶん。非常にまずいです。どこから来るのかもわからない。あたりに気配が散らばってる気もします。もしかして複数かも……」
 ビッチは地面に生える植物たちから意識を移し、淀んだ空気の中へ鼻を利かし始める。メイの言う通りだった。殊更ビッチを焦らせたのは、その臭いの正体がザクだったことだ。
 怪訝な顔のビッチにメイは首を傾げた。ビッチは真顔で「なんでもねぇ」とごまかした。
 なんでもないわけない。メイは小さく呟いた。やっぱりビッチはわかりやすい。
 いつまでも臭いと気配だけが漂い続けて、霧の向こうのザクらしき影はこちらに姿を見せない。ビッチは逃げるべき方向をいくつも知っていたが、どの方向へ行こうとザクが待ち構えている気がしてきた。
 バレている筈がねぇ。ヤギの臭いが奴の鼻に届こうと、オレが一緒に仲良くやってるなんて思うはずがねぇんだ。ビッチは押し寄せる不安を強引に抑えた。

 名案らしい名案も浮かばず、ただ時間が過ぎていく。ザクは辛抱強かった。ビッチは我慢がきかなくなり始めていた。メイは不安そうに佇むばかりで、ただ小さく鳴り続ける本能的な恐怖の警告に耐えていた。
 ビッチはそんなメイの様子を見て、我慢の蓋を外すことに決めた。出たとこ勝負だ。
「おぅい、ザクぅ!いるんだろぉ?!」
 メイが目を丸くした。しかし、ビッチが思い切って声を掛けても、霧の向こう側を歩き回る影は反応を返さない。ただただ、うろうろとふたりの周りを気配を散らし歩いている。
「返事したら方向がバレますもん……」
「あ、そりゃそうか」
 反省する間もなく、今度は石をいくつか放り投げてみる。口ですくい上げ、尻尾でトス。そして、自分の視界の中にぽすんと落ちただけだった。ザクに当たればいいのにと思ったが、やはりサルみたいなひょろりとした手が無ければ駄目らしい。

 みょーあんみょーあんみょーあん……と呟けば浮かぶかと思い込んでいるかのようにぶつぶつ言うビッチに、メイは呆れていた。
「いいじゃないですか。浮かばなくても」
「な、ななな、なんでだよ。オレはだなぁ、オマエのためを思ってだなぁ、──」
「逃げちゃいましょう。出たとこ勝負で」
 メイは事も無げに言った。
「たぶんあのオオカミ、私を狙ってるんですよね。ビッチの友達さんでビッチに会いに来てるんだったらコソコソする必要ないでしょうし。このままお互いに様子を見合っても私が疲れるだけですから、ここはもう、私が逃げ切れば万事解決でしょう」
「お、お、お……お前なァ!」
「ビッチ、どっちに逃げれば崖に近いでしょう?」
 ケロリとした顔でメイはそう言う。ビッチは無謀なことをするなと怒鳴りたくなったが、ふとメイの脚を見ると、小刻みに震えていた。
 無意識に強張っていた尻尾がしゅんと垂れた。
 メイは心からヤケになったわけではなかった。ただ、このままいてもメイの心が参ってしまうのは本当のことらしい。オオカミとヤギのいつものやり取りが、ここでは一番無難で、ビッチにとっても変に悩まなくて済む選択肢なのだった。

 ビッチは無言で、メイの希望の方向へ自分の鼻面を向ける。よし、とメイが顔を険しくし、決意が鈍る前に全速力で駆け出す。と同時に、はたして霧の向こう側の気配もそれを察知したらしく、散らばった気配は収束して一つの影を成し、草花を踏み散らす音がビッチの耳にも届いた。メイの右後ろから追う形だ。ビッチもすかさず後を追う。こうなってしまっては花を気にかける暇もない。最初の一歩で踏み潰した花のことには心が痛んだが、二歩目では割り切り、三歩目以降はザクとメイのことだけがこのオオカミの頭の中を占領していた。
「なんでオレのことを無視すんだよ、テメェ……メイの臭いを嗅ぎとれるならオレの臭いだってわからねぇはずがよォ、ないじゃんか」
 ビッチは語りかけるつもりで声を掛けたが、相変わらず前方の走るオオカミは返事をしない。何も反応を返さない。間違いなくコイツはザクなのに……ビッチは段々と腹が立ってきた。
 メイは傷が治ったばかりなのによく走っていた。小細工を弄さず、ただ全力で前へと突き進めばいいと決めてかかれば、背中に残る痛みはそう気になるものでもない。そして、追っ手がじりじりと距離を詰めてきていても、霧が濃いおかげか、見えないことがかえって恐怖に怯まずに済んでいられる。

――前へ、前へ。とにかく崖に蹄をかけるんだ。

 メイはもう、ただ目と脚の感覚だけに集中していた。
 一方でビッチは、戸惑いと怒りと不安で心がない交ぜになりながら、においの軌跡に沿って身体を動かしていた。こんなにめちゃくちゃな気持ちになって走るのは初めてだ。どういうわけか、中々、前方のザクに追いつけない。何がどうして自分の脚の運びを曇らせているのかもよくわからず、とにかく追いかけた。
 やがてメイは霧の浅い一画へと入り込んだ。ついでオオカミが躍り出る。オオカミの身体一つ分の差しか残っていない。
 オオカミはようやく捉えたヤギの姿に口角を上げた。食べることが第一目的ではないにも関わらず、本能で涎が溢れ出る。後ろから親友の声がしきりに聞こえてくるが、構っていられる余裕はない。頭の中はとにかくヤギを殺すことで一杯だった。
 崖を目前にメイは咄嗟に飛び上がり、丈夫な蹄を岩の小さな凸凹へ巧みに引っ掛けた。今まで挑戦したことのない激しい傾斜であるが、やるしかない。勢いのままに、後ろの蹄も適当な所に引っ掛けるか割れ目に食い込ませる。
 オオカミも負けじと飛び上がり、登ろうとするメイの身体めがけて体当たりした。メイの胴に前脚を引っ掛けられ、メイは少ない足場で態勢を整えることもできず、オオカミ共々地面へと落下する。オオカミが下敷きになったおかげで固い地面にぶつかることはなかった。しかし崖から離れる方向へと弾き出され、再び目指そうにも今度、自分と崖の間には付け狙うオオカミがいる。

 痛みをこらえてか、身体を震わせながらオオカミは立ち上がった。ビッチより一回り大きな、よく肥えたオオカミだった。眼帯をしている。そういえば、さっきビッチがザクと呼んでたっけ。
 ザクと呼ばれたオオカミは何も言わず、メイを睨む。狩りに見せる形相とは別の敵意が顔に寄せた皺の一つ一つに走っていた。怨みの強さに気圧されて、メイはつい引き下がってしまった。ザクはゆっくりと前進する。
 と、メイの後ろからようやくビッチがやって来た。
 結局、自分ひとりでは逃げきれずじまいだった。メイは無力感で泣きそうになり、顔を引きつらせた。
 ビッチはメイがこの場にいることに全てを察したものの、ひとまずザクの餌食にならずに済んでいることにホッと息を吐いた。
 ザクを見やると、今までにないほどの怒りに口をめくり上げている。ビッチは唾を飲みこんだ。こんなになっている相棒を見るのは初めてだ。普段は温厚なのに、今は自分にさえも襲いかからんとする気迫だ。
「メイ、こっから先はオレとアイツだけで話をつける。お前はとにかくどっか行ってろ。とにかく……遠くに」
「でも、」
「行けって言ってるだろ」
 ビッチは怒鳴る余裕も無かった。そんなビッチの静かな言葉と無表情を見て、メイは戸惑いながらも後ずさり、やがて白い景色の中に姿をくらませた。

「頭がいいな」
 ザクがようやく口をきいた。
「何がだよ」
「これで俺はもう、あのヤギを追いかけることはできないわけだ。こう空気が乱れちゃ、いつもの半分も鼻はあてにならんわけだからな。あいつが逃げるべき方向を教えてあげかったのは頭がいいって言ってんだ」
 ビッチは正直そこまで考えていなかった。単にザクの雰囲気に気圧されていてそこまで親切になれる余裕がなかっただけだ。茶化しているのか本気でそう思っているのか、今のザクを見てもわからない。
 重苦しい沈黙。ビッチは今のザクに掛ける言葉が思い浮かばない。

 やがて口を開いたのは、またザクだった。
「あのヤギと親しくするのはやめろ。こんなこといつまでも続けられると思ってんのか。知ってんだぞ……お前、ヤギを食わなくなったよな?てきとうな言い訳を作って、子供とかに譲って、自分だけ痩せて…………」
「や、痩せてんのは、も、も、もとからだ!」
「そんなに、死にてぇか!」
 ザクがとてつもない速さでビッチの方に突進してきた。暴れ牛のように額を突き出しながら、身構えるビッチの顎の下を、その額で突き飛ばす。あまりの衝撃にビッチの意識が飛びそうになる。そのままザクは親友の身体を宙に浮かせ、メイの逃げた方向へと駆け抜けようとした。
 ビッチはなんとか、鼻血を飛び散らして心の中では酷く痛がりながらも、倒れた先から直ぐにザクの背中に飛びかかった。ザクは地面に突っ伏した。だが、ザクにも意地があった。前脚は花もろとも地面を抉りながら足掻き続け、地面に押し付けて踏ん張るビッチごと走らんとする勢いだ。
「ヤギと友達になんかならせやしねぇ……真っ当なオオカミの生き方じゃねぇんだよビッチ!」
「ンなの、オメェにどうこう言われる筋合いねぇよ! ヤギの狩りでオレが手加減してるとでも思ってんのか!」
「ああ思ってるね! ガブの方がここ最近は調子が良いだろうがよ! じゃあビッチ、お前がヤギに牙や爪を突き立てているところを見せてみろ! ヤギを狩って満足そうな顔してるところを見せろ!」
「お、オレは──」
「お前、自分の顔を川の水で見てみろよ……なんで哀れむような顔してるのか、自分でも意識してねぇのかよ。なんでオオカミがエサを哀れんでるんだよ」
 ビッチは目を見開いた。声にならず息だけが漏れて、反論しようにも身体が固まってしまう。その隙を見逃さず、ザクはビッチの拘束から抜け出た。
 ザクはちらりと後ろを見やる。痩せこけたオオカミが呆然と枯れ木のように突っ立っている。あまりの図星に、肉体は素直だった。

──懐かしいな。

 ザクは目の前の相棒と初めて会った頃を思い出していた。いや、会ったというよりも、認識したと言った方がよいのだろう。なにせ赤子のときからふたりは同じ群れにいたのだ。ザクの幼い自我にも、ビッチのひょろりとした身体は少し変だなと思えるほど、昔からビッチは痩せていた。決して群れが飢えていたわけではない。ただ、ビッチの親らしきオオカミはずっと見かけないことから、少しずつ子供のザクにも察しがついていた。
 ビッチ自身はいたって元気な、今と変わらぬやんちゃなオオカミだった。病弱なわけでもない。だが、いつまで経っても普通のオオカミの体格になれないのである。ビッチにその気がなくても、ザクには危なっかしさを感じるときがあった。ふとした拍子に死んでしまったら、と無茶の混じった想像を何度してきたことだろう。
 そんな危ういビッチがどこか放っておけなくて一緒につるんでいたら、いつのまにか相棒になってしまった。

 ザクは息をのんだ。

「ちくしょう……」
 耳やこうべを垂れて、走る気も失せる。哀れんでいるのは俺も同じじゃないか。

 鼻血をぺたぺたと落としながら、相棒がザクに及び腰で近づく。先ほどの怒りでいっぱいな様子とは正反対な姿に、今度は狼狽えた。今日のビッチは感情をあちらこちらへ揺らされて余計に混乱気味だ。
 いくら哀れんでいたといっても、明らかにザクとビッチでは何もかもが食い違い、共通項などない。そんなことはザクにもわかりきっていた。しかし、それのせいでヤギを哀れむことを攻める理由が無いのではないかと一瞬揺らいでしまったが最後、怒りの荒波がたちまち相殺されてしまった。

──あとは、オオカミらしさをビッチに求めることが一番良い薬だろうな…………。

 効果的な「牙」をこのバカな親友に突き立ててやろうかとも考えたものの、もの寂しげにこちらを見つめるビッチを見ると、わざわざ「牙」を使うまでもないのかもしれないとも思う。そうしてまた自分の頭の中の怒りのさざ波は静まってしまった。
 なんだかんだ言って、ザクはビッチのことを信頼している。したいと願っていた。
「ひとつ、約束してくれ」
 ザクはぽつりとか細い声で語りかけた。
「死んじまったヤギはもう生き返らねえんだ。殺さなくてもいいから、俺たちが仕留めたヤギくらい、お前も食えよ。それだけでいい……」
 ビッチはメイを食べる自分を思い浮かべた。そして次に、自分がヤギの肉を食っているところをメイに見られたところを思い出した。あんなメイを見たくないからヤギは食べないでいようと決意したのに、今度はコイツから食べろと言われる。

──いっそ、メイにこのことを相談してみようか。そういえば、会う日くらいは我慢してくれって言われたな。で、違う群れのヤギだったら、まだメイにも気付かれず、嫌な気分にもさせないかもしれない。何日くらい食ってないんだ? あぁ、なんだか腹がとても空いてきた。

 舌をべろりと垂らしながら上の空になっているビッチを見て、ザクはニヤリと笑った。オオカミらしさを少しは取り戻せたか。
「ちなみに、自分の友達くらい、それとなく守れよ。俺は狙えると思ったら気にせず狙うからな」
「う、うるせぇ!狙うなよ親友なんだから!」
「俺とあのヤギは親友じゃねぇよ。ったく……これでバレたらギロさんやバリーさんに俺も殺されるかなぁ」
「や、やややめろヨ……」
「お前はもちろん、俺もここで見逃した事実は消せないしな。ま、お互いなんとかやっていこうぜ。今まで通りこれからも」
 そう言うと、ザクは血まみれになったビッチの口元をおもむろに舐めた。子供時代はよくそうしていたが、成長してからは一度もしなくなったことだ。面食らったビッチは恥ずかしさよりも前に幼少でじゃれあっていた頃のことを思い出した。思い出が先立ち、うっかり抗議する頃合を見失ってただなすがまま舐められる。
「うーん、まずい」
「自分から舐めといてそれかよ」
「群れに帰る前にどっかの川で身体洗っとけよ。ヤギを独り占めしてたってバリーさんに勘違いされて噛まれるのはイヤだろ」
「んなのわかってるぜ」
「それもそうだ。じゃなきゃお前が自分の脚を噛んで変に勘繰られて外出禁止を喰らうわけないもんな。とっくのとうに殺されてるぜ」
 ザクにいいようにからかわれて言い返したくなったビッチだったが、ギロの「忠告」が頭に横切って口を開けたまま止まる。股の下に尻尾がさわりと通り過ぎる感覚で、意識しなくても染み付いた上下関係に後悔した。
 黙り込んで身を小さく屈めるビッチを、ザクも無言で見守った。こればかりはザクにもしようのないことだ。むしろザクもまたギロの側に立っているのである。
 大柄なオオカミは背中に残った痛みに少しだけ顔を歪めた。
「……さあ、早く帰るぜ」
「あ、あぁ」
 ただ一頭、帰り道を霧の中でも辿ることができるこの気落ちしたオオカミをいつも通りの調子で急かす。二頭のオオカミは列をなして歩き出した。先頭を歩く小さな方は地面の臭いを嗅ぐかのように頭を下げてゆっくりと行く。大きな方は歩幅を持て余しながら一定の距離を保ってのそのそ付いて行った。

 ふと、ザクは立ち止まった。ビッチは目の前に夢中でそのまま歩いていく。
 どんよりとした空気の中に混じる仄かな獲物の香り。ザクを散々苛立たせたあのヤギだ。さっさと逃げればいいものを、オオカミの親友が気になって近くをうろついていたらしい。きっと聞き耳を立てて二頭の話も聞いていたろう。そして今もこうして、白い暗がりの向こうでビッチを見守っている。
 ザクは目許に皺をぎゅっと寄せた。尾がふらふらとゆっくり振れた。
「オオカミだったらいいのにな」
「ああ?なんか言ったか?」
「……いや」
 ザクはかぶりを振り、大きく息を吐いた。

***

 まばらな三つの影が、白い大気の中にうすく揺らいでいる。
 三つの影以外には誰もいない花咲く野原。霧は彼らの秘密を覆い隠すかのように深く深く沈み続けていった。

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